羽生善治の年収は?初の永世七冠達成!?妻は元女優!?

羽生善治さんは1970年9月27日に埼玉県所沢市で生まれ、幼稚園に入る頃から東京都八王子市に移り住んでいます。 小学校1年生の時に、近所の同級生から将棋の駒の動かし方を教わりました。 2年生の夏、お母さんが将棋に熱中する羽生さんを見て、将棋道場「八王子将棋クラブ」の「第1回夏休み小中学生将棋大会」に出場を申し込み大会デビューするも、 1勝の後2連敗で失格しています。 それがきっかけで、同年10月28日から毎週末に同道場に通うようになりました。 その後、力が急速に向上し、翌年の小学3年生の時に初段、4年生10月に四段、5年生の10月に五段になり、いわゆるアマ強豪のレベルになりました。 家でも将棋を指し、両親と妹の3名による連合軍と対戦して、連合軍が不利になった時は将棋盤を180度回転して指し継ぐという家族内ルールがありました。 1979年、3年生で4級の時に、日本橋東急デパートの「よい子日本一決定戦、小学生低学年の部で準優勝をし、翌年も関東各地のデパートの大会で準優勝や3位入賞をしました。 1981年1月7日「第1回小田急将棋まつり小学生大会」でデパート大会で初めて優勝を果たしました。 同年5年生になると、8月には東京の4つの小学生大会で優勝しています。 5年生のとき奨励会への入会を志し、道場の師範代である中嶋克安指導棋士に相談したところ、「小学生将棋名人戦で優勝すること」という厳しい条件を付けられますが、 6年生の春に見事優勝し条件をクリアします。 同年奨励会入会試験に合格。 1年あまりで6級から初段に昇段し、四段に昇段してプロに昇格。 加藤一二三氏、谷川浩司氏に続く、史上3人目の中学生棋士になりました。 史上3人目の中学生棋士に! そんな羽生善治さんの気になる年収を徹底調査しました!! ■プロフィール 本名:羽生善治(はぶ よしはる) 生年月日:1970年9月27日 出身地:埼玉県所沢市出身 血液型:AB型 職業:将棋棋士 活動期間:1985年12月18日- ■羽生さんは欠点のないオールラウンドプレーヤー! 1986年、プロデビュー初年度には全棋士中一位の勝率0.741(40勝14敗)を記録し、将棋大賞の新人賞と勝率一位賞を受賞。 1988年度のNHK杯戦では大山康晴氏、加藤一二三氏、谷川浩司氏、中原誠氏と当時現役の名人経験者4人をすべて破って優勝します。 1989年、竜王戦でタイトル戦に初登場。 研究会「島研」の恩師の島朗氏との熱闘を4勝3敗で制し、当時最年少記録の19歳で初タイトル獲得。 棋界で名人位と並んで序列トップの竜王位に就きました。 1996年2月に将棋界で初の7タイトル独占を達成(竜王、名人、王位、王座、棋王、王将、棋聖)。 2017年12月には永世竜王の資格保持者となり、初の永世七冠を達成。 2018年2月13日安倍晋三首相より、囲碁棋士の井山裕太氏と共に、将棋棋士として初の国民栄誉賞が授与されました。 さらに名誉NHK杯選手権者の称号を保持しており、合計8つの永世称号の保持も史上初。 十六世名人の中原誠氏は、羽生善治さんを「オールラウンドプレーヤーで欠点がない。歴史上初の棋士。」と評し、谷川浩司氏(引退後に十七世名人)は「羽生さんはあらゆる戦法を指しこなせる棋士。オールラウンドプレイヤーで変幻自在のため、どう指してくるのかわからない。攻めも受けも強い。こだわりが全くないのが特色。棋風がない。」と述べています。 妻は元女優でNHK連続テレビ小説『京 ふたり』のヒロイン役を務めた畠田理恵さん。 挙式は1996年3月28日。 女の子二人をもうけています。 ■才能とは、情熱や努力を継続できる力! 羽生善治さんには、いろいろな名言があります。 いくつか見てみましょう。 何かに挑戦したら 確実に報われるのであれば、 誰でも必ず挑戦するだろう。 報われないかもしれないところで、 同じ情熱、気力、モチベーションをもって 継続しているのは非常に大変なことであり、 私は、それこそが 才能だと思っている。 ただ一局一局を大切に、 そこにだけ集中して指してきた。 自分自身を裏切らない努力の姿勢が未来の結果として現れてくる。 さすが永世七冠になる人は、言うことが違いますね。 ためになります。 […]

松井秀喜の年収は?メジャーの年俸は桁外れ!?現在はニューヨーク・ヤンキースのジェネラル・マネージャー?

松井秀喜さんは1974年6月12日石川県能美町根上町(現・能美市)に瑠璃教会二代目司教である父・松井昌雄さんと母・松井さえ子さんとの間に生まれています。 3歳で自宅近くの保育園に入園。 8歳くらいに見えたそうで、保育園史上最大の園児と言われていたそうです。 根上町立浜小学校に入学。 体格が大きかったため、小学校1年生の時に3年生以上で構成される軟式野球チームに特別に入団させてもらいましたが、幼すぎて監督の指示が理解できず、一旦野球を辞めてしまいます。 小学校5年生の夏休みに、野球に打ち込む3歳年上の兄に触発されて再び軟式野球チームに入り本格的に野球を始めました。 元々は右打ちでしたが、あまりに打球を飛ばす為に野球仲間である兄とその友人たちに打てなくする目的で「尊敬する掛布雅之選手と同じ左」で打つように勧められて、左打ちに変更します。 当時はタイガースファンだったんですね。 小学3年からは柔道教室にも通い、能美郡大会で優勝、石川県大会では3位に入り国体強化選手にも選ばれています。 能美市立根上中学校に進学してからは、野球に専念するようになりました。 中学時代は捕手をつとめ、2年夏から投手に転向。 通算打率6割を超えていました。 3年生になると飛距離は130メートルにて達しています。 その一方で、中学1年の時には能美郡相撲大会に出場し、個人戦で優勝しています。 ゴジラ、子供の頃からメガ級の活躍! そんな松井秀喜さんの気になる年収を徹底調査しました! ■プロフィール 本名:松井秀喜(まつい ひでき) 愛称:ゴジラ 生年月日:1974年6月12日 出身地:石川県能美郡根上町(現・能美市)出身 血液型:O型 職業:元プロ野球選手(外野手)、ニューヨーク・ヤンキースのGM特別アドバイザー ■「こんな高校生見たことない!」 高校は星稜高校に入学。 1年生から4番打者を務め「星稜恐怖の1年生4番」として徐々に野球関係者に知られるようになりました。 夏の甲子園では初戦で対日大鶴ケ丘戦で敗退しています。 高校2年の秋の明治神宮大会では帝京相手に4敬遠されましたが見事優勝。 3年夏の甲子園は5打席連続敬遠され、明徳義塾高校に敗退しています。 高校通算打率は.450、本塁打は60本。 1992年11月21日に行われたプロ野球ドラフト会議は抽選の結果交渉権を獲得したのは巨人でした。 松井さん本人は阪神を強く希望していましたが、長嶋監督から直接電話があり感銘を受けて巨人入りを決めたとのことでした。 1993年のプロ初のキャンプでは150メートル級の場外弾を連発。 キャンプ2日目にはフリー打撃で13本の柵越えを放ち「こんな高校生見たことがない」とコーチに言わしめたそうです。 1998年、2000年、2002年には本塁打と打点の二冠王、2001年には首位打者を獲得しています。 守備でも2000年から3年連続でゴールデングローブ賞を受賞しています。 2003年からはヤンキースへ移籍。 2009年にはヤンキースは9年ぶり27回目の大リーグワールドチャンピオンに輝き、松井秀喜さんは日本人で初めてMVPを受賞。 2010年からはロサンゼルス・エンゼルスなどで活躍。 2013年には国民栄誉賞を受賞しています。 ■「努力できることが才能である!」 実家は祖母・松井瑠璃寿さんが設立した宗教法人「瑠璃教会」であり、初代司教が瑠璃寿さん、お父さんは二代目司教で松井さんの人格形成に大きな影響を与えています。 小学3年生の時にお父さんから贈られた「努力できることが才能である」という言葉を大切にしていて、お父さんがその言葉を筆で書いた紙を長く勉強机の前に貼っていたそうです。 本人曰く「他人の悪口を言わない」ということが松井さんの信条の一つです。 お父さんと悪口を言わないことを約束しているそうです。 また松井さんはグラブやスパイクなど野球用具をとても大事に扱っています。 特にグラブは毎日磨いていて「野球を始めたときからずっとしています」と述べています。 ジョー・トーリも「彼ほど道具に対してリスペクトを持っている選手は見たことがない」と言い、松井さんの人間性を高く評価しています。 道具を大切にする姿勢については、「道具を大切にしなさい」という子どもの頃からの教えを忠実に守っており、グラブ磨きは「僕の野球の原点」だと語っています。 「一本のバット、一つのグラブは、いろいろな人の苦労によって出来上がっている」ことを強く意識していて、用具作りに携わった人々への感謝の気持ちを常に抱いているそうです。 本業の野球以外にもCM撮影やテレビ出演などで多忙でも、練習後にファンにサインをねだられても断らず、記者への対応も丁寧で、こうした振る舞いから、2005年度の小学校、2006年度の中学校の道徳副読本に登場。 甲子園で5連続敬遠四球を受けた時の対応など「誠実」「明朗さ」が取り上げられました。 ■松井秀喜さんの年収は? 松井秀喜さんの年収はいくらくらいでしょうか。 プロ野球に入り5年目には1億円の大台に乗り、10年目には6億1000万円という年俸を手にしています。 […]

長嶋茂雄の年収は?現在の年齢は?好きな歴史上の人物は?妻は東京オリンピックのコンパニオン!?

長嶋茂雄さんは1936年2月20日に千葉県印旛郡臼井町に、兄1人姉2人の4人兄弟の末っ子として生まれています。 生家は農家でしたが土地を貸し、お父さんは臼井町役場の収入役や助役として働いていました。 幼少時代東急フライヤーズの大下弘や大阪タイガースの藤村富美男のプレーに魅了され野球選手を志すようになります。 子供の頃は阪神ファンだったとのこと。 小学4年生からお兄さんの影響で野球を始めました。 当時は終戦間もないということもあって道具が揃えられず、お母さんのお手製のボールとグラブで、初めて握ったバットは青竹を割ったものでした。 小学校6年生の時にお兄さんが所属していた地元の青年野球団のハヤテ・クラブに入団します。 中学校は、臼井二町組合立中学校に入学し、野球部に入部します。 1951年4月には地元の名門千葉県立佐倉第一高等学校に進学。 2年から4番打者を担いますが、高校時代はほぼ無名でした。 南関東大会に千葉代表校として出場。 第1回戦熊谷高校との試合では敗れたものの、6回表に高校公式試合自身唯一の本塁打を放ち、その飛距離が350フィート(約107m)と特大だったため、野球関係者から注目を集めることになりました。 プロ野球からスカウトが来ましたが、お父さんが進学を希望し、読売ジャイアンツからのプロ入りオファーを長嶋さんに知らせないで断っています。 何事もあきらめずに続ける長嶋さん そんな長嶋茂雄さんの気になる年収を徹底調査しました!! ■プロフィール 本名:長嶋茂雄(ながしま しげお) 愛称:ミスタージャイアンツ、ミスタープロ野球、ミスター、チョーさん、燃える男など 生年月日:1936年2月20日(2020年3月現在で84歳) 出身地:千葉県印旛郡臼井町(現千葉県佐倉市)出身 血液型:B型 職業:元プロ野球選手(内野手)、プロ野球監督、読売ジャイアンツ終身名誉監督、日本プロ野球名球会顧問、ジャイアンツアカデミー名誉校長 ■天覧試合9回裏でサヨナラホームラン! 立教大学野球部推薦入学順位2位で合格。 1954年立教大学経済学部に進学。 同年6月にお父さんが急逝しています。 お母さんが行商などをして家計を支えることになりました。 立教大学では杉浦忠投手(南海ホークス)、本屋敷錦吾内野手(阪急ブレーブス、阪神)とともに「立教三羽烏」と呼ばれ、1956年の春季リーグ戦と1957年の秋季リーグ戦で首位打者を獲得する活躍を見せました。 読売ジャイアンツから説き伏せられ、お母さんが在京の球団を希望したこともあって、入団します。 契約金は当時最高額の1800万円、年俸は200万円でした。 三冠王というのは、首位打者、最多本塁打、最多打点の3つのタイトルを獲得することですが、長嶋茂雄さんは1958年には本塁打王と打点王の二冠を達成しています。 惜しくも首位打者争いは2位となり新人での三冠王には届きませんでした。 1959年には昭和天皇が試合を観戦するというプロ野球史上初の天覧試合が行われました。 巨人対阪神で、お互い譲らず4対4で迎えた9回の裏、昭和天皇の観戦は21時15分まで決められていてそれまでに決着がつかなかったらどうするかと関係者が頭を悩ませていましたところ、 長嶋さんが9回の先頭打者でサヨナラホームランを打ち、約束の3分前に決着をつけました。 ここぞというみんなが打って欲しいと思っている時に、打てるというのが長嶋さんのすごいところですね。 1974年中日が20年ぶりのリーグ優勝を決めて、巨人のV10が消えた日、とうとう長嶋茂雄さんが引退表明をしました。 「我が巨人軍は永久に不滅です!」というのは有名な言葉です。 2013年に国民栄誉賞を受賞。 ■座右の銘は「快打洗心」! 長嶋茂雄さんは自身の性格については「セッカチですが、物事を放り出すことはありません。投げ出さずに一歩ずつコツコツ物事を続けるのは習い性になっています。 毎日少しずつでも物事を積み上げ、最後まであきらめない」と述べています。 座右の銘は「快打洗心」。 飛田穂洲の「一球入魂 快打洗心」から借りたもので、現役時代のサインにはこの言葉を添えることが多かったそうです。 監督時代のサインには快打を取り「洗心」あるいは洗まで取り「心」という言葉を添えていました。 好きな歴史上の人物は二宮尊徳(金次郎)で長嶋家の庭には二宮金次郎の石像があります。 「豪雨被害のニュースを新聞で読み、テレビで見て溜息交じりで庭に目をやると金次郎が目に入る。その姿に奮い立つのです。」と語っています。 1964年10月報知新聞社の「ON五輪をゆく」という企画で東京オリンピックのコンパニオン数人と対談をした際に、その中の一人西村亜希子さんに一目ぼれし、同年11月26日に婚約。 翌1965年1月26日に結婚し、2男2女をもうけています。 長男長嶋一茂さんはプロ野球選手からタレント。 次女長嶋三奈さんはスポーツキャスター。 次男長嶋正興さんは自動車レーサーから環境活動家になっています。 ■長嶋茂雄さんの年収は? 長嶋茂雄さんの年収はどのくらいだったのでしょうか? […]

藤井フミヤの年収は?妻は一般人で中学生の同級生!?息子はフジテレビのアナウンサー?

藤井フミヤさんは1962年7月11日に、福岡県久留米市で、国鉄職員のお父さんと美容師のお母さんのもとに第1子として生まれています。 お父さんは鳥栖駅長などを歴任しています。 弟は元チェッカーズのサックスプレイヤーでミュージシャンの藤井尚之さん。 息子はフジテレビアナウンサーの藤井弘輝さん。 藤井さんは久留米市立南筑高等学校を卒業後、日本国有鉄道門司鉄道管理局(現:九州旅客鉄道)に就職し、早岐駅輸送係として貨物列車の操車・入喚業務に従事していました。 休日には地元に帰りチェッカーズとしてバンド活動を行っていました。 「ヤマハライトミュージックコンテスト」のジュニアライト部門でグランプリを獲得し、メジャーデビュー。 1983年にチェッカーズのリードボーカルとしてデビュー。 オリジナル作品をシングルとして発表してからほとんどの作詞を担当。 中学1年の時、矢沢永吉率いるロックバンド「キャロル」の解散コンサートを見て「俺も!ロックンロールだ!」と音楽の道を進んだという藤井フミヤさん。 1983年のデビュー曲「ギザギザ-」には「小っちゃな頃から悪ガキで 15で不良と呼ばれたよ」という歌詞があるが、自身は「(15で)立派な不良でした」と語っています。 「やんちゃでしたね、いわゆる不良グループでした」と振り返りました。  高校入学後、3日ぐらいで「無期停学になりましたよ。放課後、先輩のバイクを借りて、無免許で外にブ~ン、と行ったら、パトカーにつかまって」と悪ガキぶりを告白しています。 1992年チェッカーズ解散。 1993年から藤井郁弥改め藤井フミヤとしてソロ活動を開始。 国鉄職員からチェッカーズデビュー! そんな藤井フミヤさんの気になる年収を徹底調査しました!! ■プロフィール 本名:藤井郁弥(ふじい ふみや) 生年月日:1962年7月11日 出身地:福岡県久留米市出身 血液型:A型 職業:歌手、ミュージシャン、シンガーソングライター、ボーカリスト、俳優、作詞家、作曲家、CGアーティスト、プロデューサー 活動期間:1983年~ ■音楽ばかりでなく、デザインでも才能発揮! 藤井フミヤさんは、地元ふるさとのためにも活動しています。 出身地福岡県久留米市のために久留米市歌「ふるさとのささやき」を作曲しています。 またくるめ市民カードのデザイン、福岡放送のロゴマーク作成、母校久留米南筑高校の制服のデザインも手がけています。 藤井さんは地元福岡県のプロ野球球団福岡ソフトバンクホークスのファンで、応援歌『勝利の空へ』を手がけ、毎年開幕頃に生で歌っています。 (負けた時は観戦のみ。) また1997年10月1日開局の鹿児島県初のコミュニティーFMの鹿児島シティエフエムの愛称「FRIENDS FM 762」と名づけました。 そして取締役にも就任しています。 2007年に第62回神宮式年遷宮の奉賛曲『鎮守の里』を作詞、作曲。 伊勢市に3日間滞在し、宇治橋のそばの五十鈴川の河原で作曲しています。 3日間で作曲してしまうなんて、なんという才能なのでしょう。デザインもできるなんてすごいですね。 2009年7月22日の日食を見に行くために屋久島へ行ったところ、大分前から準備していたにも関わらず曇りで直接見ることはできませんでした。 しかし屋久島環境保全のための修繕費用として売り上げの一部が寄付される「屋久島Tシャツ」をデザインしています。 また『ナインティナインのオールナイトニッポン』のノベルティ「ナイナイバッジ」と「ステッカー」のデザインを手掛けています。 藤井さんが番組に出演した時にコンピューターグラフィックスでのデザイン制作に興味を持っていると話をしたところ、ナイナイの二人が「作ってください」と頼んだところ、 実際に作ってきたのが採用されたとのこと。 ■妻は、中学校の時の同級生!遠距離恋愛を成就 藤井フミヤさんは1990年6月29日に「とわたり まちこ」さんという一般女性と結婚しています。 中学校の同級生でした。 奥さんの実家は地元で大きな書店を営んでいて、まちこさんは「お嬢さま」だったそうです。 当時藤井さんは不良少年だったため、奥さんのお父さんから付き合いを猛反対されたとのことです。 そこで手先の器用は藤井さんは、正月に「芋版」を作り年賀状を奥さんの実家に送りました。 そのことがきっかけでお父さんが付き合いを認めるようになったそうです。 高校卒業後は、社会人になり奥さんは東京へ行き、藤井さんは福岡で国鉄職員として働いていたため遠距離恋愛になりました。 藤井フミヤさんはこの当時の事について『毎日列車を見ながら、「この列車に飛び乗って、まちこに会いに行けたらなぁ。」と思っていました。』と話していたそうです。 チェカーズがヤマハのコンテストでグランプリを取り、デビューしたことで同じ東京へ行くことができました。 結婚の記者会見で、「藤井フミヤのどこが好きか?」と訊ねられた時に、藤井さんが「全部とか言えよ。」と促したため、 […]

YOSHIKIの年収は?CDの売上が半端ない!?実年齢は何歳なの?総資産が700億円あるって本当!?

YOSHIKIさんは1965年11月20日に、千葉県館山市の老舗呉服店を営む家庭の2兄弟の長男として生まれています。 お父さんはジャズ・ピアノ、お母さんは三味線、叔母さんは琴の演奏を嗜む音楽的な一面のある家系でした。 お父さんは先代から家業を継ぐまでは、プロのタップダンサーをしていました。 4つ歳の離れた弟の元俳優の光樹さんが現在マネージメントを行っています。 YOSHIKIさんは9歳の頃からピアノの作曲を始め、10歳から14歳までは学校のブラスバンド部でトランペットを担当していました。 また中学から高校まではサッカー部にも所属。 毎年誕生日に楽器を買い与えられるのが恒例で、トランペットは10歳の誕生日に買ってもらったことがきっかけで始めています。 その翌年の8月に、お父さんを自殺で亡くしています。 クラシック音楽しか聴いてませんでしたが、行きつけのレコード店で偶然目にしたジャケットに惹かれて購入したキッスのシングル「ラヴ・ガン」と、お母さんに頼み連れていってもらったキッスの『ロックンロール・オーバー・ツアー』の日本武道館公演をきっかけにロックに魅了され、11歳でドラムスを始めました。 11歳で初めての4人組バンド「DYNAMITE」(メンバーは小学校の同級生2人と幼馴染みでギターが弾けたToshIさん)を結成、後に「NOISE」に改称し、レッド・ツェッペリンやディープ・パープルなどの楽曲を演奏していました。 1982年の夏、大学受験のためにメンバーが離脱したNOISEを解散し、ハードなロックを志向したバンド「X」(X JAPAN)をToshIさんと結成。 高校3年から音楽大学を目指して本格的にピアノに打ち込み、受験用のプログラムを通して、ソルフェージュ、和声、楽典などの音楽理論を学びました。 高校を卒業すると本格的にバンド活動を行うためにToshIさんと共に上京。 1986年には、インディーズのレコード会社「エクスタシーレコード」を設立。 このレコード会社はLUNA SEAやGLAY、ZI:KILLなどを輩出しています。 キッスに感化されてロックの世界に! そんなYOSHIKIさんの気になる年収を徹底調査しました!! ■プロフィール 本名:林佳樹(はやし よしき) 愛称:よっちゃん 生年月日:1965年11月20日 出身地:千葉県館山市出身 血液型:B型 職業:ソングライター、作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、ドラマー、ピアニスト、実業家 ■愛知万博のイメージ・ソングを担当! 1991年には小室哲哉さんとともに2人で新ユニット「V2」を結成。 1992年にV2として、シングル「背徳の瞳〜Eyes of Venus〜」をリリース。 1993年の年末には『第43回NHK紅白歌合戦』の全出場歌手で歌う合唱曲「TEARS~大地を濡らして~」を作詞、作曲し会場のパイプオルガンで伴奏。 1994年にはクイーンのドラマーのロジャー・テイラーさんとのコラボレーション・シングル「Foreign Sand」をリリース。 2人は国連UNESCOの呼びかけにより催された『GME ’94 〜21世紀への音楽遺産をめざして〜 AONIYOSHI』で共演。 1997年X JAPANの解散を発表。 1999年『天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典』のための奉祝曲の制作の依頼を受け、皇居前広場で行われた式典で作曲した『Anniversary』を演奏。 2000年6月にメジャー・レーベル「エクスタシー・ジャパン」を設立。 Shiroや、BEAST、Revenusなど、レーベル所属のアーティストのデビューに携わりました。 2005年には『日本国際博覧会(愛知万博)』の公式イメージ・ソングを制作。 2012年ゴールデングローブ賞の公式テーマ・ソングを制作。 1993年からは他のアーティストのプロデュースも務め、NOA、GLAY、西城秀樹さん、北野井子さん、DIR EN GREY、工藤静香さん、ぽるん、松田聖子さんなどの作品を手掛けています。 2000年には「日本社会と文化に貢献した人物」として文部大臣表彰を受けました。 YOSHIKIさんはプライベートブランドを立ち上げコーセーと共同で香水をつくりました。 またワコールとは女性用下着を作っています。 タカラ社のリカちゃんシリーズとのコラボレーションではリカちゃんシリーズで初めての実在の人物としてX japanのYOSHIKI人形が発売されました。 ロサンゼルスには10億円もの投資をして作ったスタジオを所有していて、マイケル・ジャクソンさんもレコーディングに訪れて友達になったそうです。 […]

さかなクンの年収は?帽子のデザインはなんの魚?クニマスを発見したって本当?お母さんの教育が凄い!?

さかなクンは東京都で生まれて、神奈川県綾瀬市に育っています。 綾瀬市立北の台小学校、綾瀬市立北の台中学校、神奈川県立綾瀬西高等学校を卒業しました。 さかなクンは子供の頃から絵を描くのが大好きで、漫画家の水木しげるさんの作品を描いていました。 小学生の時、友達が描いたタコの絵に感動し、実物が見たいとお母さんに頼み、タコを一匹買ってもらいます。 さかなクンがタコを描きたがっていたので、その日から毎日一カ月間、お母さんは味を変えてタコの料理を出したそうです。 タコに始まり、魚が大好きになったさかなクンは、毎週のように水族館へ行き、水槽の前でじっと魚を観察していました。 さかなクンのお母さんというのは「興味のあること」をとことんやらせるという姿勢で、「気の済むまで眺めていなさい。」と見守っていたそうです。 さかなクンは中学生3年生のときには、学校で飼育していたカブトガニの人工孵化に成功しています。 カブトガニの人工孵化は非常に珍しく、そのことは新聞にも取り上げられました。 さかなクンは「水槽が狭くてかわいそうだなあ」と思い、決まった時間にカブトガニを外に出していたら、カブトガニが潮の満ち引きと勘違いしたのが原因とのことです。 1993年高校3年生の時に、テレビ東京系の番組『TVチャンピオン』の「第3回全国魚通選手権」で準優勝しました。 その後5連覇を達成し、殿堂入りし、それからはゲスト出演しています。 現在の芸名の「さかなクン」は同番組のレポーターだった中村有志氏が名づけたものです。 東京海洋大学入学を目指しましたが願いが叶わず、日本動物植物専門学院アニマルケアー科(現在は廃校)に進みました。 専門学校卒業後は、水族館や観賞魚販売店など、魚に関係するアルバイトを転々とし、寿司屋で働いていた時、店内で魚のイラストを描いたところ、それらを見た他の店舗や企業から絵の依頼が舞い込むようになりました。 アルバイトをしながら兼業イラストレーターとして活動を始めます。 テレビのドキュメンタリー番組に出演したことで、株式会社アナン・インターナショナル会長の目に留まり、水族館での絵の展示などをサポートしてもらえるようになりました。 それ以降、魚専門のサイエンスライターとしても活動しています。 『TVチャンピオン』で優勝し、「さかなクン」の芸名がつきました。 そんなさかなクンの気になる年収を徹底調査しました!! ■プロフィール 本名:宮澤正之(みやざわまさゆき) 愛称:さかなクン、さかなチャン、博士 生年月日:1975年8月6日 出身地:東京都出身 血液型:A型 職業:魚類学者、タレント、イラストレーター ■クニマスの再発見に大きな貢献! 2006年、東京海洋大学客員准教授に就任。 小学校の時に卒業文集に水産大学の先生になることが夢と書いたことが叶ったと言えます。 2010年には京都大学依頼でクニマスのイラスト執筆を担当した際、参考のために近縁種のヒメマスを全国から取り寄せたところ、このうち西湖の個体にクニマスに似た特徴をもつものを見つけ、中坊徹次教授にに送りました。 このことがきっかけとなり、田沢湖のクニマスが西湖で生存していることが判明。 絶滅種とされていたクニマスの再発見に大きく貢献しました。 上皇さまも、中坊教授とさかなクンの功績を称え、70年ぶりに見つかったクニマスのことを「奇跡の魚(うお)」と表現されました。 クニマスはかつて秋田県の田沢湖にのみ生息していた固有種です。 水力発電用のダム建設により田沢湖の水質が急速に酸性化し、1940年代に絶滅したとみられていました。 なぜ、田沢湖固有のクニマスが西湖で見つかったかというと、1935年に田沢湖から送られた受精卵を放流していたから。 以前から西湖では、「クロマス」と呼ばれ知られていたそう。 それが「クニマス」だとは誰も思わなかったという。 田沢湖観光協会は、国や県と協力して水質改善を進めるなどして、将来的にクニマスを田沢湖に戻す計画を立てています。 今では西湖に約1万匹のクニマスが生息。 富士山の地下水が流れ込み水温が低く、環境が適しているのです。 さかなクンはまた海に関する研究や啓蒙活動に貢献した「海洋立国推進功労者」として、2012年7月13日に内閣総理大臣賞を受賞。 2015年3月18日に東京海洋大学から名誉博士の称号が授与されました。 2015年12月25日に“渚の駅”たてやまの名誉駅長に就任、さかなクンギャラリーが渚の博物館内1階に開設されました。 ■興味のあることはとことんやらせるお母さんの教育方針! さかなクンの好奇心を押さえつけず、しっかりと認めてくれていたお母さん。 子供が「何かに興味を持ち、それを探求することは素晴らしいこと」という姿勢でした。 さかなクンが子供の頃、突然「ウマヅラハギを家で飼ってみたい」と思い、お母さんに頼んで鮮魚店に連れて行ってもらい、ウマヅラハギを購入しようとしました。 「表で泳いでいるウマヅラハギをください。」 しかし、しばらくすると、板前さんがウマヅラハギの姿造りを持ってきました。 飼育するとは思わなかった板前さんがウマヅラハギをさばいて持ってきたのです。 このような時も、黙ってみていたお母さん。 「失敗することの大切さを、身をもって学んでもらいたかったのかもしれません。」とさかなクンは語っています。 さかなクンのお母さんは、「失敗しても叱らない」という姿勢を一貫して取っていたようです。 […]

浜田雅功の年収は?友人の家の扉を壊し丸刈りの全寮制の高校に入れられた!?今はSuicaも持っていない!?

浜田雅功さんは大阪市浪速区で生まれました。 父親の憲五郎さんはは鹿児島県出身で、大阪万博にてソ連館のペンキ塗りを請け負っていたペンキ屋に勤めていました。 浜田さんが幼稚園へ上がる頃に家族で尼崎市へ引っ越しています。 それまでは芦屋市で家族で暮らしていました。 現在も付き合いがある放送作家の高須光聖氏とは浜幼稚園で出会いました。 父親が知人の借金の連帯保証人になったことがきっかけで、裕福な生活から極貧生活を送ることになりました。 ボロアパートの天井が抜け上に住んでいたおばさんが落ちてくることもあったとか。 浜田さんは尼崎市立潮小学校に入学し、そこで現在の相方である松本人志さんと出会いました。 特に松本さんとは同じクラスになることは一度もありませんでした。 小学校卒業後、尼崎市立大成中学校に進学すると、2年進級時に松本と同じクラスになり仲良くなりました。 3年になると松本さんら友人たちと共に放送部に入部します。 中学生の時に、友人の家に松本らと遊びに行ったところ留守だったため、扉をノコギリで切って壊し中に入るという悪事を働きました。 やんちゃだったんですね。 このことがきっかけで中学の担任の先生から三重県伊賀市にある全寮制でスパルタ教育を行う日生学園高等学校(現在は桜丘高等学校)を勧められ、中学卒業後の1979年に入学。 2年次(1980年)には日生学園高等学校の兄弟校にあたる全寮制の日生学園第二高等学校(三重県津市。現在は青山高等学校)が開校し、浜田さんは同校に移動しています。 あまりの厳しさに、一度だけ学校を抜け出し松本人志さんの家に逃げ込んだことがあるとか。 全寮制で抑圧が厳しく、俗世と隔離された生活をしていたため、寮内で丸刈り(当時の校則で定められていた)に散髪する際に床に敷かれた新聞から、石原裕次郎の入院を知りました。 高校生時代は外部との接触が遮断されていたため、月に一度の散髪の時、床に敷かれた新聞紙が”唯一の情報源”だったとのこと。 また実家に帰省し友人と街へ遊びに行った際に三色の歯磨き粉が発売されていたことをはじめて知ったそうです。 浮世離れしていたのですね。 当時は教師や上級生からの暴力が日常茶飯事であり、浜田さんも教頭に松葉杖で殴られるなどの体罰を受けた経験があります。 しかし、1年生の時には寮で相部屋となった当時の三年生からお菓子を貰うなどして可愛がってもらったそうです。 在学中は副学寮長を務めていました。 高校卒業後の目標は特になかったため、父親の提案で競艇選手の試験を受けましたが残念なことに失敗しています。 いたずらが過ぎて、厳しい全寮制の高校に入れられた! そんな浜田雅功さんの気になる年収を徹底調査しました!! ■プロフィール 本名:濱田雅功(はまだまさとし) 愛称:浜ちゃん、ダーハマ、まーくん 生年月日:1963年5月11日 出身地:兵庫県尼崎市出身 血液型:A型 職業:芸人、司会者、俳優、歌手 ■「ダウンタウン」のコンビ名でデビューして、大人気! 1982年、松本さんを誘って吉本興業に入ります。吉本総合芸能学院第1期生となります。初めは『松本・浜田』というコンビ名でしたが、複数回の改名(『ひとしまさし』『てるお・はるお』『ライト兄弟』)を経て『ダウンタウン』となりました。 『4時ですよーだ』で関西地区での人気を確立し、ほどなくして上京し、『夢で逢えたら』『ダウンタウンのごっつええ感じ』などで人気を博し、全国区タレントとして広く名を知られるようになりました。 1990年前後にはウッチャンナンチャン・とんねるず・B21スペシャルらと共に「お笑い第三世代」として一大ブームを巻き起こしました。 以後、お笑いのみの活動にとどまらず、俳優、声優、歌手としても活動し、ピンでは司会を務める事も多いです。 浜田さんは2016年12月、声帯炎にかかり、同月18日、25日放送のダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!を欠席しています。 相方の松本さんはこれを受け「欠席前の方が声が出ていてハキハキしていた」と後日ガキの使いで語ったそうです。 妻は小川菜摘(1989年結婚)。 長男はハマ・オカモト、2015年の時点でアメリカ留学、2019年9月、アメリカの大学を卒業。 次男もいます。 ダウンタウンは劇場時代を振り返り「昔は本当にひどかった」と前置きしたうえで、観客と喧嘩をしていた過去を明かしています。 浜田雅功は当時、ヤジを飛ばしてきた客に詰め寄ると「お前、入場料なんぼ払ろうたんや?」と訊ね、3000円だと答えた客に対して「これやるから帰れ!」と、入場料を叩き返したことがあるそうです。 やりますね。 ■Suicaのチャージの仕方がわからない!?「浮世離れしてるねぇ」 ダウンタウンが、2020年2月5日に放送されたテレビ番組「水曜日のダウンタウン」(TBS系)に出演。 2人ともSuicaのチャージ方法がわからないことが判明しました。 この日、プライベートで電車に乗るか尋ねられたダウンタウン・浜田さんは、「俺はもう全然やな」と答え、松本さんも「ちょっと待てよ……ホンマにないな」と2人とも全く電車に乗らないと語りました。 そして「Suicaのチャージの仕方とかわからないでしょう?」と聞かれると、浜田さんは絶句。 松本さんは「スマホの(Suicaの)チャージの仕方はわかるよ。スマホに入れてるから」とSuicaそのもののチャージの仕方はわからないと答えました。 松本さんがスマホでSuicaを使っていることに、浜田さんが「Suica持ってるんや!」と驚くと、逆に松本さんは浜田さんに対して「お前ひどいな……いやあすげえな、浮世離れしてるねえ」と呆れたとのこと。 ■浜田雅功さんの年収は? 浜田雅功さんの年収は、なんと4億4000万円! […]

北島三郎の年収は?紅白歌合戦の出場回数は?与作やまつりでファンの心わしづかみ!愛馬のキタサンブラックは菊花賞で優勝!?

北島三郎さんは1936年10月4日北海道上磯郡知内村(現:知内町)に生まれています。 北海道函館西高等学校に進学。 高校時代、海で溺れた小学生を救助し、函館新聞にも掲載されました。 高校在学中に函館で開催された『NHKのど自慢』に出場しましたが、鐘は2つでした。 司会の宮田輝氏から「良い声をして学生さんですか?お上手でしたのにねえ…」と優しい声をかけられ、「歌やれば歌手の道があるかもしれない」と思うようになったそうです。 1954年17歳で高校を中退後、18歳で東京の親族を頼って上京。 東京声専音楽学校に入学。 しかし歌謡曲をやりたかったので、渋谷を拠点に流しの仕事をしながらデビューを目指しました。 この頃に下宿していたアパートの大家の娘の雅子さんと結婚。 1960年流しの仕事をしていて声をかけてきたのが日本コロムビアの芸能部長で、新橋の喫茶店に呼び出され、引き合わせられたの作曲家の船村徹でした。 これを契機に船村門下生となりレッスンの日々となります。 流しから船村門下に入りデビューを果たす。 そんな北島三郎さんの気になる年収を徹底調査しました!! ■プロフィール 本名:大野穣(おおのみのる) 愛称:サブちゃん 生年月日:1936年10月4日 出身地:北海道上磯郡知内村出身 血液型:O型 職業:演歌歌手、俳優、作詞家、作曲家、馬主 ■「与作」が大ヒット!紅白出場「まつり」でトリに! 1961年船村氏から「なみだ船」の譜面を渡され、レコーディングも行われました。後に最初のヒット曲となります。 1962年「北海道(北島)生まれの三郎」という由来のもとに北島三郎と命名、デビューが決定。 同年6月に日本コロムビアから「ブンガチャ節」でデビューするが不発に終わりました。 セカンド・シングル「なみだ船」がヒットなりました。 1963年NHK紅白歌合戦に初出場。 1965年「兄弟仁義」「帰ろかな」「函館の女」をリリースし、3曲大ヒットとなり演歌歌手としての人気を確立。 1978年「与作」(NHK『あなたのメロディー』で公募)が大ヒットし、ファンの幅を広げました。 1980年以降『腹が丈夫』であったことをシャレにして自ら原譲二というペンネームをつけ、作詞や作曲、演出を手掛けるようになってきました。 1986年「北の漁場」で第28回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。 1989年4月21日1月8日の改元により制定された年号「平成」にちなんで「平成音頭」を発表。 約16万枚を売り上げました。 1998年テレビアニメの主題歌(NHK『おじゃまる』の主題歌「詠人(うたびと))を歌い、新しいジャンルにも挑戦。 2006年10月4日古希と『芸道45周年』を祝うパーティーの席上、一番弟子の山本譲二を2007年に「のれん分け」のかたちで独立させることを発表。 2006年に発表の「あの日時代」がオリコン演歌・歌謡チャートで1位を記録。 2010年放送文化の向上に功績のあった人物を表彰する「第61回日本放送協会放送文化賞」を受賞。 同年3月29日には「北島三郎特別公演」の名古屋御園座公演千秋楽で「座長公演4000回」の大記録を樹立。 2013年第64回NHK紅白歌合戦で史上初の50回出場を達成するが、この回限りでの勇退を宣言。 史上最多の13回のトリで『まつり』を披露。 5年後の2018年・第69回NHK紅白歌合戦において、特別枠で弟子のユニットである北島兄弟(北山たけし・大江裕)とともに出場し、7度目の『まつり』を歌い上げました。 ■愛馬のキタサンブラックが菊花賞で優勝!豪邸は36部屋!? 北島三郎さんは、演歌歌手としてだけでなく、JRAの馬主としても知られています。 1963年から馬主として活動しています。 北島さんが馬主としての活動を始めたのは、先輩歌手だった春日八郎さんに勧められたためのようです。 春日八郎さんもまた馬主として活動をしていました。 2015年には北島三郎さんの愛馬キタサンブラックが菊花賞で優勝。 これまでのキタサンブラックの獲得賞金は6億4279万円。 今までに所有していた馬の数は約170頭。 馬主は所有馬を預ける厩舎や生産牧場に預託料を支払わなければならず、これまで10億円の預託料を支払っています。 北島三郎さんの馬は30億円近い賞金を獲得しており、競馬の賞金は馬主が80%、調教師が10%、騎手と厩務員5%ずつの取り分になっているので、北島さんの取り分は24億円にのぼります。 預託料の10億円を差引くと、約14億円儲けていることになります。 すごい金額ですね。 東京都八王子の豪邸は、三郎の語呂合わせで36部屋もあるそうです。 弟子も住まわせ面倒を見ているようです。 テニスコートもあり、八王子の夜景と富士山がとてもきれいに見えるそうです。 […]