清原和博の年収は?現在の状況は?YouTubeチャンネルの調子がいい?息子の高校はどこ?

清原和博さんは1967年8月18日うまれ、大阪府岸和田市出身。 家族構成は父親、母親、弟の4人家族。 実家は電気屋さんで父親が経営していました。家族全員野球が好きで巨人ファンだったが父親だけが阪神ファン。 当時巨人の勢いはものすごくて、V10といわれる10年連続セントラル・リーグ制覇といういわゆる黄金時代でした。そんな強い球団に憧れるのは当然でしょうね。 小学校は岸和田市立八木南小学校。野球を始めた当初はバットやボールなどはなく、そこらへんにある石ころや木の棒をそれに見立てて遊んでいたんだとか。 今考えると危ないことをしているようですが、子どもたちが必死に考えた知恵と「野球をしたい!」という情熱の現れでしょうね。 今こんな事をやると、スグにSNSで動画がさらされ、自治体が規制をかけまくるんでしょうけど。 そんな中、どうしても野球をやりたかった清原少年の目に飛び込んだのは一つのポスター。 「岸和リトルリーグ(硬式野球)部員募集」 すぐに応募しました。入団テストを受けました。その結果、見事合格し硬式野球チームの部員になることに。 清原少年はすでに身長が高く同級生でも頭一つ抜けている状態でした。 入部当初は小学3年生でしたが、4年生に上がる頃にはチームのレギュラーとして活躍するようになりました。驚くべきはその他はみんな6年生であるということ。 みなさん小学校4年生に戻って考えてみてください。 6年生がどれほど大人に見えてましたか?身長が高く、力も強く、頭も良くて頼りになる存在じゃなかったでしょうか? 同時に下手なことをしたら怒られてしまう恐怖の存在でも合ったはずです。 そんな先輩に混じってレギュラーを掴み、その中で活躍した清原少年の心臓はとてつもなく強靭だったに違いありません。 ちなみにピッチャーとしても活躍していました。 中学校は岸和田市立久米田中学校。 野球チームも「岸和田リトルリーグ」から「岸和田シニアリーグ」に移り、中学2年生ながらキャプテンを務め関西の大会で優勝することに一役買いました。 当時から野球センス抜群で恵まれた体格で高い身体能力があったため、中学時代から多くの高校からスカウトが集まっていました。 噂では30校近いスカウトが来ていたそうですが、その中で清原和博が選んだ高校は… 高校はPL学園高校。 当時甲子園の常連校として高い人気と実力を兼ね備えた、野球エリート高校。 その後な活躍はご存知のとおりでしょう。 気になる年収を徹底調査しました!! ■プロフィール 本名:清原和博(きよはらかずひろ) 愛称:きよちゃん、きよ 生年月日:1967年8月18日 出身地:大阪府岸和田市 身長:188cm 球団 ・西武ライオンズ(1986ー1996年) ・読売ジャイアンツ(1997ー2005年) ・オリックス・バファローズ(2006ー2008年) 監督・コーチ歴 ・ワールドトライアウト 2019年には監督としても活躍! 2019年に株式会社ワールドトライアウトが企画したプロ野球入団テストが行われました。 野球好きの方なら疑問に浮かんだでしょう。 「トライアウトって毎年やってるよね?」 これまでにもプロ野球で戦力外になった選手がシーズン終了後にトライアウトを受けています。最近、新庄剛志さんの現役復帰に向けたトライアウトが話題になりましたが、あれです。 この企画では、プロ野球を戦力外になった選手の他にマイナーリーグや独立リーグ、アマチュア野球など様々な分野からプロ野球を目指すことが出来るチャンスを与える企画でした。 試合形式で行われたため、チームの総監督として清原和博さんが務めたということです。 ■YouTubeチャンネルの勢いがすごい? 清原和博さんがYouTubeチャンネルを開設したのは2020年12月12日。 チャンネル名は「清ちゃんスポーツ」記事執筆時の2021年2月頭時点ですでに登録者28万人以上、総再生回数は1000万回以上を達成。 YouTube動画の本数自体は13本とまだまだ少ないですが、再生回数がすごいんです。 さらにゲストが豪華で ・とんねるず石橋貴明さん ・元横浜ベイスターズ 佐々木主浩さん ・元阪神タイガース 藤川球児さん など、そうそうたるメンバーとの共演に加えて、通算本塁打525本の打撃を支えた打撃技術などを惜しみなく発信しているため、野球ファンからすると大変参考になるチャンネルになっています。 薬物事件もなんのその 清原和博さんがYouTubeチャンネルを開設してもテレビではあまり見かけませんよね? […]

藤川球児の年収は?2020年11月11日に引退試合を迎えた彼と結婚した嫁はどんな人?息子も野球をしているの?

藤川球児さんは1980年7月21日生まれ、高知県高知市出身。 家族構成は父親、母親、兄弟が3人の6人家族。 野球を始めたのは小学校3年生の時、高知県の少年野球チーム『小高坂(こだかさ)ホワイトウルフ』でショートをしていましたが、後に投手へコンバート。 名前から野球をやるべく生まれてきたような感じがしますが、『球児』という名前をつけたのはお父さんの影響。 お父さんは国体の野球選手でピッチャーを務めていた! いわゆるサラブレッド。 お父さんも優秀な野球選手で国体の予選でノーヒットノーランを達成しており、その翌日に子供が生まれたので名付けたのが『球児』 小学校は高知市立小高坂(こだかさ)小学校。 藤川は小さい時から運動神経がよく、柔道をしていましたが小学3年生から野球を始めたが、自分の名前が『球児』であることや父親が野球をやっていた事が大きかったようで、当時の憧れの人は元読売ジャイアンツの投手、斎藤雅樹さん。 中学校は高知市立城北中学校。 女優の広末涼子さんと同級生 中学3年生の作文に甲子園出場とプロ野球選手になることを宣言。 高校は地元の強豪校、高知商業高等学校。 2年生の夏の甲子園でライト兼控え投手として出場し、初戦の旭川大高戦に登板し好投。 高校3年生の時、1998年NPBドラフト会議で阪神タイガースから1位指名をうけ、プロ野球選手としての人生が始まりました。 当時の契約金は1億円で、年俸はおよそ700万。 同期は当時西武ライオンズの松坂大輔投手、巨人の上原浩治投手がおり1年目からバリバリ活躍する彼らをみて焦っていました。 周りからは厳しい言葉もかけられプレッシャーを感じながらプレーしていましたが、『絶対見返してやる!!』という強い気持ちを持って練習し結果を出していきました。 意外にも1軍で結果を出すまでには時間がかかっており、入団6年目の2004年のシーズン後半から中継ぎ投手として結果を出すようになりました。 2005年から背番号22へ変更し、阪神タイガースの絶対的セットアッパーとして活躍。 気になる年収を徹底調査しました!! ■プロフィール 本名:藤川球児(ふじかわ きゅうじ) 生年月日:1980年7月21日 出身地:高知県高知市 身長:185cm 職業:プロ野球選手、投手 活動期間↓↓↓ 阪神タイガース(1999〜2012) シカゴ・カブス(2013〜2014) テキサス・レンジャーズ(2015) 高知ファイティングドッグス(2015) 阪神タイガース(2016〜2020) 2020年11月11日に引退試合で最速149キロ!まだまだ投げられそうだが… 最終登板と引退セレモニー↓↓↓ 藤川球児選手へのメッセージ↓↓↓ 全盛期の彼のストレートは分かっていても打てなかった 藤川球児投手の魅力は浮き上がるようなストレート。 球速は150キロ前後ですがストレートが来る分かっていてもバットに当てることができないことが多く、清原和義さん曰く『外国人投手の160キロは打てるが藤川の150キロはバットに当たらない』 2006年のオールスターゲームに9回に登板し、当時西武ライオンズのホームランバッター『カブレラ選手』にストレートをなげる仕草を見せ、その通りに全球ストレートを投げ空振り三振を奪いました。 次の打者、当時北海道日本ハムファイターズの小笠原選手は球界随一のバットコントロールの巧みな選手。 バットに当てるのが精一杯で全く前に飛ばず空振り三振に切って取りました。 引退試合でも150キロ近い球を投げれるにも関わらずやめてしまうのは、まったいない感じしますが、全盛期ほどの迫力はありませんし、他の球種でごまかしながら投げるにも限界があったのでしょう。 それでやっていけるほどプロは甘く無い。 40歳という年齢も考えると切りが良かったのかもしれませんね。 そんな藤川球児さんを支えてきたお嫁さんはどういう方なのか、子供は父親の背中を追いかけて野球をしているのか気になりますよね? ■お嫁さんは高校時代の同級生 名前は『英子』さん 一般女性でプライベートなどの詳細は公表されていませんが、高校時代同級生なので高知商業高等学校の出身。 元看護師であり藤川球児さんが最高のパフォーマンスをできるようにサポートしていました。 ここからは個人的な推測になってしまいますが、英子さんは藤川さんのことを信頼していて判断を受け入れる、優しくて精神的に強い女性だと思います。 プロの道に進み、2軍では結果を出していたものの1軍で結果が出るようになったのはプロ入り6年目のシーズン後半でした。 藤川さん自身ドラフト1位で入団したのにも関わらず、結果が出ない時期があり同期の松坂大輔さんや上原浩治さんは1軍で結果を出していたため、周りからの目や意見は厳しかったはずです。 恐らく嫁である英子さんにもその目は向けられていたでしょうし、その時の人の目は怖くて冷たいものです。 それに屈することなく、藤川さんを支えつつ子供も育てられる心の強さは尋常じゃないでしょう。 […]

三浦知良の年収は?そのストイックなプロ意識とは?CM出演で年収がすごいことに!?

三浦知良さんは1967年2月26日に静岡県静岡市葵区に父納谷宣雄さんと母由子さんのもとに生まれています。 小学校4年生の時に、両親が離婚し三浦姓を名乗るようになりました。 叔父(母の弟)にサッカー指導者の三浦哲治さんがいます。 静岡市立城内小学校に入学。 小学時代には伯父納谷義郎さんが監督を務める城内FCに入っていました。 1982年、私立静岡学園高校を8カ月で中退し、ブラジルでプロサッカー選手になることを志し、単身ブラジルに渡航。 CAジュベントスに所属しました。 1986年ペレが在籍した名門「サントスFC」とプロ契約。 日本で開催されたキリンカップサッカー’86にブラジルでプレーするプロ選手として初登場します。 1987年パラナ州リーグ「ソシエダージ・エスポルチーバ・マツバラ」と契約。 アラゴアス州リーグ「クルーベ・デ・レガッタス・ブラジル」(CRB)と契約。 1988年サッカー王国で最もレベルの高いサンパウロ州リーグ「E.C.キンゼ・デ・ジャウー」と契約。 日本人として初ゴール(対コリンチャンス)を決め、ブラジルに“KAZU”の名を強烈にアピールしました。 ブラジルで最高レベルのリーグ戦、コッパウニオン(ブラジル選手権)で活躍。 ブラジルの専門記者によるポジション別のMVP投票にて、左ウイング部門第3位にランクイン。 1989年パラナ州リーグ「コリチーバFC」と契約。 創立80周年のコリチーバに、3年ぶり29回目の優勝をもたらしました。 1990年サンパウロ州リーグ「サントスFC」と再契約。 Jリーグの立役者! そんな三浦知良さんの気になる年収を徹底調査しました! ■プロフィール 本名:三浦知良(みうら かずよし) 愛称:カズ、キング・カズ 生年月日:1967年2月26日 出身地:静岡県静岡市葵区出身 血液型:A型 職業:プロサッカー選手、元フットサル選手 ■‌Jリーグ初めてのMVP! Jリーグ発足前に日本のW杯出場に貢献するために日本でプレーすることを選び、1990年日本サッカーリーグ(JSL:Jリーグの前身)「読売サッカークラブ(ヴェルディ川崎/後の東京ヴェルディの前身)」に移籍。 1993年国際サッカー歴史記録学会選定(本部ドイツ・ヴィースバーデン)のアジア年間最優秀選手に選出されました。 1993年にJリーグ開幕。 ヴェルディ川崎の黄金期を築くのに大きな貢献を果たし、ヴェルディ川崎の中心選手として広く知られるようになりました。 日本代表、第6回アジア・アフリカ選手権で優勝(対コートジボワール代表)。 日本代表、第15回ワールドカップアメリカ大会・アジア地区最終予選。 4得点で得点王(2勝2分1敗、第3位で本大会出場ならず。「ドーハの悲劇」)。 1994年グランドチャンピオンシップ優勝(対鹿島)。 主将としてヴェルディをJリーグ初代チャンピオンに導きました。 Jリーグ初代MVP(初年度最優秀選手賞)、ベストイレブン賞受賞。 その後、イタリア・セリエAのジェノアCFCに期限付移籍(1年契約/1994年)や、クロアチアのクロアチア・ザグレブへ移籍(1999年)で欧州リーグでのプレーを経て、京都パープルサンガ(1999年-2000年)やヴィッセル神戸(2001年-2005年)、横浜FC(2005年)で活躍しています。 2011年フットサルリーグ(Fリーグ)「エスポラーダ北海道」に登録。 2012年フットサル日本代表としてフットサルワールドカップに出場。 ブラジル戦でフットサル日本代表としてデビューしました。 ウクライナ戦にて初ゴールを決めています。 三浦知良さんは日本国籍の選手でブラジルで成功、活躍し、有名になった唯一の日本人選手で、 世界各国のサッカークラブを渡り歩いた日本プロサッカー選手の先駆け的存在です。 現在のサッカー人気や日本代表ブーム、自身のセリエA移籍などで、ファンが欧州サッカーへの関心を高めるきっかけをつくるなど、サッカーを日本においてメジャースポーツに押し上げた立役者であり、功労者でもあります。 特に若手が三浦さんを手本とするのは、その強烈かつストイックなプロ意識です。 朝一番にグラウンドに訪れ、ランニングでは常に先頭に立つなど精力的に動き、 練習は別メニューでなく、親子ほどの年齢差のある選手と一緒に練習をこなします。 一日に何度も体重を量り、フィジカルトレーナー、マッサージトレーナー、栄養士は個人で雇い入れているほど、徹底した体調管理を行っています。 シドニーFC在籍時にはピエール・リトバルスキー監督から「カズはサッカー選手のお手本。シドニーFCの選手達はカズからプロ精神を学んだ」と賛辞を贈られています。 そのプロ意識の高さには驚きますね。 ストイックなイメージで知られていますが、孤高の存在というわけではなく、欧州でプレーする長友佑都さん・長谷部誠さん・内田篤人さん・香川真司さんらと食事会(通称「カズ会」)を行うなど面倒をみているそうです。 その際、カズの隣の席の争奪戦が起きるほどに慕われているとのことです。 三浦知良さんには次のような言葉があります。 […]

内川聖一の年収は?WBCでは世界一に!首位打者も獲得!

内川聖一選手は1982年8月4日に大分県大分市に生まれています。 父親が国東高校の野球部の監督を務めていた頃の教え子が吉田豊彦氏でした。 内川選手が子供の頃プロ野球で最初に興味を持ったのが吉田氏がいた南海ホークスで、南海ホークスのユニフォーム型パジャマを着ていました。 高校は大分工業高校に入学しますが、1年の秋に骨のう腫と呼ばれる骨に穴があく病気を患い3カ月入院します。 高校時代は43本ものホームランを打ちました。 しかし甲子園には出場できず、準決勝で負けています。 2000年のドラフトで横浜ベイスターズに1位指名され入団。 初めは代打として出場していました。 2002年には代打として42試合に出場し、70打席ながら打率.333、2本塁打という結果を残しています。 2006年に100試合出場を初めて達成。 2007年に本格的外野手となり1年間ライトで起用されました。 8月には打率.448を記録。 2008年には首位打者を獲得。 右打者としての日本人選手のセ・リーグ記録を更新する打率.378で最多安打、最高出塁率も獲得しました。 2008年には首位打者獲得! そんな内川聖一選手の気になる年収を徹底調査しました!! ■プロフィール 本名:内川聖一(うちかわ せいいち) 生年月日:1982年8月4日 出身地:大分県大分市出身 職業:プロ野球選手 活動期間:2001年3月30日- ■WBCで世界一に! 内川選手は国際大会でも活躍しています。 2009年からワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に3試合連続出場しています。 2009年には最初は控えとして召集されていましたが、途中からスタメンとして出場し始めます。 決勝戦ではレフトでスタメンになり、ヒットも打ち好守備で活躍。 試合はイチロー選手が延長戦でタイムリーを打ち、見事世界一に輝きました。 2010年3月24日フジテレビアナウンサーの長野翼さんと結婚。 2010年6月3日に国内FA権を獲得。 11月8日にFA権行使を表明。 ソフトバンクと広島東洋カープが獲得に名乗りを上げ、両球団と交渉を行い、12月1日にソフトバンクへ移籍することを表明しています。 2011年には打率.338で首位打者を獲得し、史上2人目となるセ・パ両リーグでの首位打者となりました。 (1人目は元中日ドラゴンズ、ロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)で活躍した江藤慎一選手) チームは日本一に輝き、内川選手もパ・リーグ最優秀選手賞を獲得しました。 翌年は最多安打を獲得。 2014年には日本シリーズでMVPに輝き、チームは日本一に。 2015年にはクライマックスシリーズでMVPを獲得。 2016年には1年間4番に座り100打点をクリア。 2019年のクライマックスシリーズ(CS)のファーストステージ終了時点で、CS通算10本塁打(CS歴代1位)。 CSでMVP3回(CS歴代1位)の記録を持ちます。 2008年に記録した右打者最高打率.378は未だプロ野球記録として残っています。 ■取り返す機会を作るために成長! 内川選手の弟の内川洋平さんの話によれば、2013年のWBCの準決勝で敗退したことがばねになったということです。 主力として臨んだ2013年のWBCでは準決勝のプエルトリコ戦で敗退。 この時も内川は敗戦の責任をひとりで背負い込みました。 2点を追う8回裏の一死一・二塁の場面。一塁走者だった内川選手がスタートを切ったが、二塁走者の井端弘和選手が塁上に留まっていたため、内川が挟殺プレーの末にアウトとなり、追撃のチャンスが潰えてしまいました。 侍ジャパンの世界3連覇は絶たれ、内川は国内から激しいバッシングの的となってしまいました。 しかし、「少年時代から『壁にぶち当たったら自分で解決するんだ』という性格の持ち主でしたが、その強さはボクら家族の想像を超えていましたね。2013年のWBCの後、兄はフェードアウトしていくどころか一段と強くなったと思います。」と洋平さんは述べています。 内川選手はその後も常勝ソフトバンクの主軸打者としてヒットを量産し続けました。 WBCの翌年には右打者歴代最多タイの7年連続3割を達成し、2014年の日本シリーズではMVPに輝きました。 2015年からはリーグ最強打線の4番に座り、同年に2度目のクライマックスシリーズMVP。 2016年には初の100打点越え(106打点)を達成。 こうして洋平さんや家族の心配を見事に振り払ったばかりか、2017年には3度目のWBC日本代表入りを果たしています。 (出典 DIAMOND […]

高橋尚子の年収は?実年齢は?グッとくるその名言とは!?

高橋尚子さんは1972年5月6日に両親とも教育者の家庭に二人兄弟の妹として生まれています。 岐阜市立藍川東中学校、岐阜県立岐阜商業高等学校、大阪学院大学商学部卒業。 中学から陸上競技を始めました。 高校時代は800mの選手で、県大会岐阜県1位になりましたが、全国インターハイでは予選で敗退となっています。 高校2年生の時に初めて岐阜県代表に選ばれて、全国都道府県対抗女子駅伝に出場しました。 区間順位は47人中45位でした。 大学時代は日本学生種目別選手権の1500mで優勝しました。 関西インカレでは中距離2種目で優勝して、女子最優秀選手に選出された年もあるなど、800m、1500m、3000mの3種目で何度も優勝しています。 大学卒業後1995年小出義雄監督率いるリクルートに契約社員として入社。 1997年1月26日大阪国際女子マラソンが初マラソンになりました。 小出監督は「有森二世」とイチオシの選手として紹介していましたが、2時間31分32秒の記録で7位に終わりました。 1997年4月小出監督がリクルートを離れ積水化学へと移籍し、チームメンバーとともに積水化学へと移籍。 1998年3月8日名古屋国際女子マラソンでは、30㎞過ぎてから小出監督の「ここからいけ!」の合図で猛烈なスパートをかけゴールタイムは2時間25分48秒の日本最高記録をマークし、マラソン初優勝を果たしました。 2000年3月12日五輪最終選考会となった名古屋国際女子マラソンに出場。 2時間22分19秒の大会新記録で優勝。 シドニー五輪代表の座を獲得。 日本女子陸上初の金メダル! そんな高橋尚子さんの気になる年収を徹底調査しました!! ■プロフィール 本名:高橋尚子(たかはし なおこ) 愛称:Qちゃん 生年月日:1972年5月6日(47歳(2020年3月現在)) 出身地:岐阜県岐阜市出身 血液型:O型 職業:元陸上競技選手(女子マラソン)、スポーツキャスター、マラソン解説者 ■シドニー五輪女子マラソンで金メダルを獲得!国民栄誉賞を受賞! 2000年9月24日シドニー五輪女子マラソンではリディア・シモン(ルーマニア)と激しくデッドヒートを演じましたが逃げ切り、優勝します。 五輪での金メダル獲得は日本陸上界64年ぶり(戦後初)であり日本女子陸上界においては史上初でした。 ゴールタイムの2時間23分14秒は、ロサンゼルス五輪でジョーン・ベノイトがマークしたタイムを16年ぶりに更新する五輪最高記録(当時)。 これらの功績により、同年10月30日に国民栄誉賞を授与されました。 2001年9月30日のベルリンマラソンでは、テグラ・ロルーペ(ケニア)の2時間20分43秒を更新して、女子初の2時間20分突破となる2時間19分46秒の世界最高記録(当時)で優勝。 2002年9月29日のベルリンマラソンにも出場。 2時間21分49秒の記録で2年連続優勝を果たします。 フルマラソン6連覇を達成。 2002年11月17日の東京国際女子マラソンはレース数日前に胸の激痛が引かないため診断した結果、肋骨の疲労骨折を起こしていることが判明し欠場。 2003年パリ世界陸上も断念することになりました。 2002年12月小出監督が積水化学を退社。 小出監督の指導体制を継続するために高橋さんも2003年2月に積水化学を退社。 ■東京国際女子マラソン優勝! 2003年6月スカイネットアジア航空と2005年5月までの2年間の所属契約を結び、佐倉アスリート倶楽部で引き続き小出監督の指導を受けます。 2003年11月16日の東京国際女子マラソンに翌2004年8月のアテネオリンピック女子マラソン日本代表を目指して出場。 日本人トップの座は守ったもののゴールタイムは2時間27分21秒で2位でした。 その後五輪の代表選考ではゴールタイムやレース内容も悪かったことなどの理由で落選。 2005年5月9日小出監督指導体制から独立することを発表。 2005年6月ファイテンと2009年5月までの4年間の所属契約を結び、「チームQ」として活動。 2005年11月20日東京国際女子マラソンに出場。 2時間24分39秒でゴール。 2年ぶりのマラソン復帰レースで優勝。 2006年11月19日2年連続で東京国際女子マラソンに出場。 3位でのゴールとなり翌2007年8月開催の世界陸上大阪大会女子マラソン日本代表選出は絶望的に。 2008年10月28日練習メニューがこなせなくなり、プロ高橋の走りができなくなったことを大きな理由に現役からの引退を表明。 2009年3月8日名古屋国際女子マラソンにこれまで応援してくれたファンや関係者に感謝するために、「ありがとうラン」として一般参加で出場。 沿道の観客に笑顔で手を振りながら走り続け、2時間52分23秒でのタイムでゴール。 高橋尚子さんの言葉には次のようなものがあります。 人以上やって人なみ。 […]

羽生結弦の年収は?愛用のマスクの値段は?衣装代ってどのくらいするの?

羽生結弦さんは1994年12月7日に、宮城県仙台市泉区に生まれています。 名前は「弓の弦を結ぶように凛とした生き方をしてほしい」という願いから「結弦」とつけられました。 2歳の頃から喘息(ぜんそく)の持病があり、スケートを始めたのは喘息を克服するためということもありました。 喘息のため10代の頃から体力や持久力で劣ると指摘されてきましたが、投薬治療や吸入薬、鍼治療,気道を開く施術、移動時や練習時にマスクを着用することで心肺機能を上げるなどの対策を続け体力面でのハンデは大分改善されました。 しかし練習拠点をカナダに移してからは環境の変化により激しい発作に襲われることもあるそうです。 1枚1万1980円もするマスクをして話題になりましたが、愛知県の中小企業「くればぁ」が作った高性能マスクで洗って100回使うことができるそうです。 影響を受けた選手としては、エフゲニー・プルシェンコ、ジョニー・ウィアー、ステファン・ランビエール、ハビエル・フェルナンデス、ディック・バトンを挙げています。 特にエフゲニー・プルシェンコの影響を受けていて、2002年のソルトレイクシティ五輪でプルシェンコの演技を見て心酔し、技の手本とするばかりでなくマッシュルームカットを真似していた時期もありました。 プルシェンコの得意技のビールマンスピンをプログラムに取り入れるなどもしています。 理想とする王者像はプルシェンコであり「彼のような存在になれるように努力していきたい」と述べています。 プルシェンコみたいな強いスケーターになりたい! そんな羽生結弦さんの気になる年収を徹底調査しました!! ■プロフィール 本名:羽生結弦(はにゅう ゆづる) 生年月日:1994年12月7日 出身地:宮城県仙台市泉区出身 血液型:B型 職業:フィギュアスケート選手(男子シングル) ■くまのプーさんが大好き! 2014年ソチ、2018年平昌オリンピック連覇。 2014年、2017年世界選手権2回優勝。 2013年、2014年、2015年、2016年グランプリファイナル4連覇。 2020年四大陸選手権優勝し、ゴールデンスラム、スーパースラム。 2012年-2015年全日本選手権4連覇。 世界ランキング、2013/14-2017/18まで5シーズン連続1位。 2016年オータムクラシックのショートプログラムについてISU公認の大会で、史上初の4回転ループに成功。 ISUジャッジ・システムのもとに開催された国際大会について史上初めてショートプログラムで100点、フリースケーティング200点、トータルスコア300点超えを達成。 2014年、2018年には紫綬褒章。 2018年には国民栄誉賞を受賞。 羽生結弦さんはくまのプーさんが好きで「いつも変わらないあの表情をみるとリラックスできる」とのこと。 ティッシュカバーにプーさんを愛用しており、試合の際には毎回必ずリンクに連れてきています。 (オリンピックなど商標権の問題で持ち込めない場合は選手村で留守番なんだとか。) 国際大会での演技後にはあまりにたくさんのプーさんが投げ込まれるので、持ち帰れずに行った先に寄付するそうです。 平昌オリンピックの時に投げ込まれたプーさんたちは、ボランティアの現場スタッフにプレゼントされました。 ■「努力できることが才能である!」 いつも全力で取り組む羽生結弦さんにはたくさんの名言があります。 そのいくつかを見てみましょう。 「自分自身が納得できる演技をしたい」 「僕は僕、羽生結弦以上でも、以下でもない。ありのままの自分が出来ることを、五輪でもしっかりやりたい」 「君が代が流れて日本代表として誇らしい気持ちになった。日本の人たちと一緒に喜びを分かち合いたい」 「『絶対に勝ちたい、こんなんで負けてたまるか』という怒りの感情で自分のアドレナリンをしっかり出しきれた」 「いつも心を開いているんです。心を開いていなきゃ、何も吸収できないしおもしろくない。心を開く事が成長の原動力」 「一生懸命さが大事。1分1秒を大切にする」 「僕の場合、悔しさってすごい原動力」 「いかなる状況においても全力を出し切ることがスケーターとしての流儀です」 「今しかできないことを全力でやる」 「王者になる。まずそうして口に出して、自分の言葉にガーッと追いつけばいい」 「とにかく負けず嫌いだったので、何をするにしても、自分ができないと『絶対に一番になってやる』と思って、練習に取り組んでいました」 「選手1人1人、いろいろな特徴であったり、得意とするところがあると思います。この選手ならこれ、と。でも僕は、絶対に負けないスケーターになるというが考えているところです」 「具体的に自分が何をすべきか、今何をしなくてはいけないのか、諦める諦めないの前に考える」 「逆境は嫌いじゃない。それを乗り越えた先にある景色は絶対にいいはずだと信じている」 「プレッシャーを感じても乗り越えることができれば自分が強くなれる」 「プレッシャー、大好きですから」 「相手が誰であろうと絶対勝つ」 ■羽生結弦さんの年収は? […]

松井秀喜の年収は?メジャーの年俸は桁外れ!?現在はニューヨーク・ヤンキースのジェネラル・マネージャー?

松井秀喜さんは1974年6月12日石川県能美町根上町(現・能美市)に瑠璃教会二代目司教である父・松井昌雄さんと母・松井さえ子さんとの間に生まれています。 3歳で自宅近くの保育園に入園。 8歳くらいに見えたそうで、保育園史上最大の園児と言われていたそうです。 根上町立浜小学校に入学。 体格が大きかったため、小学校1年生の時に3年生以上で構成される軟式野球チームに特別に入団させてもらいましたが、幼すぎて監督の指示が理解できず、一旦野球を辞めてしまいます。 小学校5年生の夏休みに、野球に打ち込む3歳年上の兄に触発されて再び軟式野球チームに入り本格的に野球を始めました。 元々は右打ちでしたが、あまりに打球を飛ばす為に野球仲間である兄とその友人たちに打てなくする目的で「尊敬する掛布雅之選手と同じ左」で打つように勧められて、左打ちに変更します。 当時はタイガースファンだったんですね。 小学3年からは柔道教室にも通い、能美郡大会で優勝、石川県大会では3位に入り国体強化選手にも選ばれています。 能美市立根上中学校に進学してからは、野球に専念するようになりました。 中学時代は捕手をつとめ、2年夏から投手に転向。 通算打率6割を超えていました。 3年生になると飛距離は130メートルにて達しています。 その一方で、中学1年の時には能美郡相撲大会に出場し、個人戦で優勝しています。 ゴジラ、子供の頃からメガ級の活躍! そんな松井秀喜さんの気になる年収を徹底調査しました! ■プロフィール 本名:松井秀喜(まつい ひでき) 愛称:ゴジラ 生年月日:1974年6月12日 出身地:石川県能美郡根上町(現・能美市)出身 血液型:O型 職業:元プロ野球選手(外野手)、ニューヨーク・ヤンキースのGM特別アドバイザー ■「こんな高校生見たことない!」 高校は星稜高校に入学。 1年生から4番打者を務め「星稜恐怖の1年生4番」として徐々に野球関係者に知られるようになりました。 夏の甲子園では初戦で対日大鶴ケ丘戦で敗退しています。 高校2年の秋の明治神宮大会では帝京相手に4敬遠されましたが見事優勝。 3年夏の甲子園は5打席連続敬遠され、明徳義塾高校に敗退しています。 高校通算打率は.450、本塁打は60本。 1992年11月21日に行われたプロ野球ドラフト会議は抽選の結果交渉権を獲得したのは巨人でした。 松井さん本人は阪神を強く希望していましたが、長嶋監督から直接電話があり感銘を受けて巨人入りを決めたとのことでした。 1993年のプロ初のキャンプでは150メートル級の場外弾を連発。 キャンプ2日目にはフリー打撃で13本の柵越えを放ち「こんな高校生見たことがない」とコーチに言わしめたそうです。 1998年、2000年、2002年には本塁打と打点の二冠王、2001年には首位打者を獲得しています。 守備でも2000年から3年連続でゴールデングローブ賞を受賞しています。 2003年からはヤンキースへ移籍。 2009年にはヤンキースは9年ぶり27回目の大リーグワールドチャンピオンに輝き、松井秀喜さんは日本人で初めてMVPを受賞。 2010年からはロサンゼルス・エンゼルスなどで活躍。 2013年には国民栄誉賞を受賞しています。 ■「努力できることが才能である!」 実家は祖母・松井瑠璃寿さんが設立した宗教法人「瑠璃教会」であり、初代司教が瑠璃寿さん、お父さんは二代目司教で松井さんの人格形成に大きな影響を与えています。 小学3年生の時にお父さんから贈られた「努力できることが才能である」という言葉を大切にしていて、お父さんがその言葉を筆で書いた紙を長く勉強机の前に貼っていたそうです。 本人曰く「他人の悪口を言わない」ということが松井さんの信条の一つです。 お父さんと悪口を言わないことを約束しているそうです。 また松井さんはグラブやスパイクなど野球用具をとても大事に扱っています。 特にグラブは毎日磨いていて「野球を始めたときからずっとしています」と述べています。 ジョー・トーリも「彼ほど道具に対してリスペクトを持っている選手は見たことがない」と言い、松井さんの人間性を高く評価しています。 道具を大切にする姿勢については、「道具を大切にしなさい」という子どもの頃からの教えを忠実に守っており、グラブ磨きは「僕の野球の原点」だと語っています。 「一本のバット、一つのグラブは、いろいろな人の苦労によって出来上がっている」ことを強く意識していて、用具作りに携わった人々への感謝の気持ちを常に抱いているそうです。 本業の野球以外にもCM撮影やテレビ出演などで多忙でも、練習後にファンにサインをねだられても断らず、記者への対応も丁寧で、こうした振る舞いから、2005年度の小学校、2006年度の中学校の道徳副読本に登場。 甲子園で5連続敬遠四球を受けた時の対応など「誠実」「明朗さ」が取り上げられました。 ■松井秀喜さんの年収は? 松井秀喜さんの年収はいくらくらいでしょうか。 プロ野球に入り5年目には1億円の大台に乗り、10年目には6億1000万円という年俸を手にしています。 […]

長嶋茂雄の年収は?現在の年齢は?好きな歴史上の人物は?妻は東京オリンピックのコンパニオン!?

長嶋茂雄さんは1936年2月20日に千葉県印旛郡臼井町に、兄1人姉2人の4人兄弟の末っ子として生まれています。 生家は農家でしたが土地を貸し、お父さんは臼井町役場の収入役や助役として働いていました。 幼少時代東急フライヤーズの大下弘や大阪タイガースの藤村富美男のプレーに魅了され野球選手を志すようになります。 子供の頃は阪神ファンだったとのこと。 小学4年生からお兄さんの影響で野球を始めました。 当時は終戦間もないということもあって道具が揃えられず、お母さんのお手製のボールとグラブで、初めて握ったバットは青竹を割ったものでした。 小学校6年生の時にお兄さんが所属していた地元の青年野球団のハヤテ・クラブに入団します。 中学校は、臼井二町組合立中学校に入学し、野球部に入部します。 1951年4月には地元の名門千葉県立佐倉第一高等学校に進学。 2年から4番打者を担いますが、高校時代はほぼ無名でした。 南関東大会に千葉代表校として出場。 第1回戦熊谷高校との試合では敗れたものの、6回表に高校公式試合自身唯一の本塁打を放ち、その飛距離が350フィート(約107m)と特大だったため、野球関係者から注目を集めることになりました。 プロ野球からスカウトが来ましたが、お父さんが進学を希望し、読売ジャイアンツからのプロ入りオファーを長嶋さんに知らせないで断っています。 何事もあきらめずに続ける長嶋さん そんな長嶋茂雄さんの気になる年収を徹底調査しました!! ■プロフィール 本名:長嶋茂雄(ながしま しげお) 愛称:ミスタージャイアンツ、ミスタープロ野球、ミスター、チョーさん、燃える男など 生年月日:1936年2月20日(2020年3月現在で84歳) 出身地:千葉県印旛郡臼井町(現千葉県佐倉市)出身 血液型:B型 職業:元プロ野球選手(内野手)、プロ野球監督、読売ジャイアンツ終身名誉監督、日本プロ野球名球会顧問、ジャイアンツアカデミー名誉校長 ■天覧試合9回裏でサヨナラホームラン! 立教大学野球部推薦入学順位2位で合格。 1954年立教大学経済学部に進学。 同年6月にお父さんが急逝しています。 お母さんが行商などをして家計を支えることになりました。 立教大学では杉浦忠投手(南海ホークス)、本屋敷錦吾内野手(阪急ブレーブス、阪神)とともに「立教三羽烏」と呼ばれ、1956年の春季リーグ戦と1957年の秋季リーグ戦で首位打者を獲得する活躍を見せました。 読売ジャイアンツから説き伏せられ、お母さんが在京の球団を希望したこともあって、入団します。 契約金は当時最高額の1800万円、年俸は200万円でした。 三冠王というのは、首位打者、最多本塁打、最多打点の3つのタイトルを獲得することですが、長嶋茂雄さんは1958年には本塁打王と打点王の二冠を達成しています。 惜しくも首位打者争いは2位となり新人での三冠王には届きませんでした。 1959年には昭和天皇が試合を観戦するというプロ野球史上初の天覧試合が行われました。 巨人対阪神で、お互い譲らず4対4で迎えた9回の裏、昭和天皇の観戦は21時15分まで決められていてそれまでに決着がつかなかったらどうするかと関係者が頭を悩ませていましたところ、 長嶋さんが9回の先頭打者でサヨナラホームランを打ち、約束の3分前に決着をつけました。 ここぞというみんなが打って欲しいと思っている時に、打てるというのが長嶋さんのすごいところですね。 1974年中日が20年ぶりのリーグ優勝を決めて、巨人のV10が消えた日、とうとう長嶋茂雄さんが引退表明をしました。 「我が巨人軍は永久に不滅です!」というのは有名な言葉です。 2013年に国民栄誉賞を受賞。 ■座右の銘は「快打洗心」! 長嶋茂雄さんは自身の性格については「セッカチですが、物事を放り出すことはありません。投げ出さずに一歩ずつコツコツ物事を続けるのは習い性になっています。 毎日少しずつでも物事を積み上げ、最後まであきらめない」と述べています。 座右の銘は「快打洗心」。 飛田穂洲の「一球入魂 快打洗心」から借りたもので、現役時代のサインにはこの言葉を添えることが多かったそうです。 監督時代のサインには快打を取り「洗心」あるいは洗まで取り「心」という言葉を添えていました。 好きな歴史上の人物は二宮尊徳(金次郎)で長嶋家の庭には二宮金次郎の石像があります。 「豪雨被害のニュースを新聞で読み、テレビで見て溜息交じりで庭に目をやると金次郎が目に入る。その姿に奮い立つのです。」と語っています。 1964年10月報知新聞社の「ON五輪をゆく」という企画で東京オリンピックのコンパニオン数人と対談をした際に、その中の一人西村亜希子さんに一目ぼれし、同年11月26日に婚約。 翌1965年1月26日に結婚し、2男2女をもうけています。 長男長嶋一茂さんはプロ野球選手からタレント。 次女長嶋三奈さんはスポーツキャスター。 次男長嶋正興さんは自動車レーサーから環境活動家になっています。 ■長嶋茂雄さんの年収は? 長嶋茂雄さんの年収はどのくらいだったのでしょうか? […]