羽生結弦の年収は?愛用のマスクの値段は?衣装代ってどのくらいするの?

羽生結弦さんは1994年12月7日に、宮城県仙台市泉区に生まれています。 名前は「弓の弦を結ぶように凛とした生き方をしてほしい」という願いから「結弦」とつけられました。 2歳の頃から喘息(ぜんそく)の持病があり、スケートを始めたのは喘息を克服するためということもありました。 喘息のため10代の頃から体力や持久力で劣ると指摘されてきましたが、投薬治療や吸入薬、鍼治療,気道を開く施術、移動時や練習時にマスクを着用することで心肺機能を上げるなどの対策を続け体力面でのハンデは大分改善されました。 しかし練習拠点をカナダに移してからは環境の変化により激しい発作に襲われることもあるそうです。 1枚1万1980円もするマスクをして話題になりましたが、愛知県の中小企業「くればぁ」が作った高性能マスクで洗って100回使うことができるそうです。 影響を受けた選手としては、エフゲニー・プルシェンコ、ジョニー・ウィアー、ステファン・ランビエール、ハビエル・フェルナンデス、ディック・バトンを挙げています。 特にエフゲニー・プルシェンコの影響を受けていて、2002年のソルトレイクシティ五輪でプルシェンコの演技を見て心酔し、技の手本とするばかりでなくマッシュルームカットを真似していた時期もありました。 プルシェンコの得意技のビールマンスピンをプログラムに取り入れるなどもしています。 理想とする王者像はプルシェンコであり「彼のような存在になれるように努力していきたい」と述べています。 プルシェンコみたいな強いスケーターになりたい! そんな羽生結弦さんの気になる年収を徹底調査しました!! ■プロフィール 本名:羽生結弦(はにゅう ゆづる) 生年月日:1994年12月7日 出身地:宮城県仙台市泉区出身 血液型:B型 職業:フィギュアスケート選手(男子シングル) ■くまのプーさんが大好き! 2014年ソチ、2018年平昌オリンピック連覇。 2014年、2017年世界選手権2回優勝。 2013年、2014年、2015年、2016年グランプリファイナル4連覇。 2020年四大陸選手権優勝し、ゴールデンスラム、スーパースラム。 2012年-2015年全日本選手権4連覇。 世界ランキング、2013/14-2017/18まで5シーズン連続1位。 2016年オータムクラシックのショートプログラムについてISU公認の大会で、史上初の4回転ループに成功。 ISUジャッジ・システムのもとに開催された国際大会について史上初めてショートプログラムで100点、フリースケーティング200点、トータルスコア300点超えを達成。 2014年、2018年には紫綬褒章。 2018年には国民栄誉賞を受賞。 羽生結弦さんはくまのプーさんが好きで「いつも変わらないあの表情をみるとリラックスできる」とのこと。 ティッシュカバーにプーさんを愛用しており、試合の際には毎回必ずリンクに連れてきています。 (オリンピックなど商標権の問題で持ち込めない場合は選手村で留守番なんだとか。) 国際大会での演技後にはあまりにたくさんのプーさんが投げ込まれるので、持ち帰れずに行った先に寄付するそうです。 平昌オリンピックの時に投げ込まれたプーさんたちは、ボランティアの現場スタッフにプレゼントされました。 ■「努力できることが才能である!」 いつも全力で取り組む羽生結弦さんにはたくさんの名言があります。 そのいくつかを見てみましょう。 「自分自身が納得できる演技をしたい」 「僕は僕、羽生結弦以上でも、以下でもない。ありのままの自分が出来ることを、五輪でもしっかりやりたい」 「君が代が流れて日本代表として誇らしい気持ちになった。日本の人たちと一緒に喜びを分かち合いたい」 「『絶対に勝ちたい、こんなんで負けてたまるか』という怒りの感情で自分のアドレナリンをしっかり出しきれた」 「いつも心を開いているんです。心を開いていなきゃ、何も吸収できないしおもしろくない。心を開く事が成長の原動力」 「一生懸命さが大事。1分1秒を大切にする」 「僕の場合、悔しさってすごい原動力」 「いかなる状況においても全力を出し切ることがスケーターとしての流儀です」 「今しかできないことを全力でやる」 「王者になる。まずそうして口に出して、自分の言葉にガーッと追いつけばいい」 「とにかく負けず嫌いだったので、何をするにしても、自分ができないと『絶対に一番になってやる』と思って、練習に取り組んでいました」 「選手1人1人、いろいろな特徴であったり、得意とするところがあると思います。この選手ならこれ、と。でも僕は、絶対に負けないスケーターになるというが考えているところです」 「具体的に自分が何をすべきか、今何をしなくてはいけないのか、諦める諦めないの前に考える」 「逆境は嫌いじゃない。それを乗り越えた先にある景色は絶対にいいはずだと信じている」 「プレッシャーを感じても乗り越えることができれば自分が強くなれる」 「プレッシャー、大好きですから」 「相手が誰であろうと絶対勝つ」 ■羽生結弦さんの年収は? […]

藤井フミヤの年収は?妻は一般人で中学生の同級生!?息子はフジテレビのアナウンサー?

藤井フミヤさんは1962年7月11日に、福岡県久留米市で、国鉄職員のお父さんと美容師のお母さんのもとに第1子として生まれています。 お父さんは鳥栖駅長などを歴任しています。 弟は元チェッカーズのサックスプレイヤーでミュージシャンの藤井尚之さん。 息子はフジテレビアナウンサーの藤井弘輝さん。 藤井さんは久留米市立南筑高等学校を卒業後、日本国有鉄道門司鉄道管理局(現:九州旅客鉄道)に就職し、早岐駅輸送係として貨物列車の操車・入喚業務に従事していました。 休日には地元に帰りチェッカーズとしてバンド活動を行っていました。 「ヤマハライトミュージックコンテスト」のジュニアライト部門でグランプリを獲得し、メジャーデビュー。 1983年にチェッカーズのリードボーカルとしてデビュー。 オリジナル作品をシングルとして発表してからほとんどの作詞を担当。 中学1年の時、矢沢永吉率いるロックバンド「キャロル」の解散コンサートを見て「俺も!ロックンロールだ!」と音楽の道を進んだという藤井フミヤさん。 1983年のデビュー曲「ギザギザ-」には「小っちゃな頃から悪ガキで 15で不良と呼ばれたよ」という歌詞があるが、自身は「(15で)立派な不良でした」と語っています。 「やんちゃでしたね、いわゆる不良グループでした」と振り返りました。  高校入学後、3日ぐらいで「無期停学になりましたよ。放課後、先輩のバイクを借りて、無免許で外にブ~ン、と行ったら、パトカーにつかまって」と悪ガキぶりを告白しています。 1992年チェッカーズ解散。 1993年から藤井郁弥改め藤井フミヤとしてソロ活動を開始。 国鉄職員からチェッカーズデビュー! そんな藤井フミヤさんの気になる年収を徹底調査しました!! ■プロフィール 本名:藤井郁弥(ふじい ふみや) 生年月日:1962年7月11日 出身地:福岡県久留米市出身 血液型:A型 職業:歌手、ミュージシャン、シンガーソングライター、ボーカリスト、俳優、作詞家、作曲家、CGアーティスト、プロデューサー 活動期間:1983年~ ■音楽ばかりでなく、デザインでも才能発揮! 藤井フミヤさんは、地元ふるさとのためにも活動しています。 出身地福岡県久留米市のために久留米市歌「ふるさとのささやき」を作曲しています。 またくるめ市民カードのデザイン、福岡放送のロゴマーク作成、母校久留米南筑高校の制服のデザインも手がけています。 藤井さんは地元福岡県のプロ野球球団福岡ソフトバンクホークスのファンで、応援歌『勝利の空へ』を手がけ、毎年開幕頃に生で歌っています。 (負けた時は観戦のみ。) また1997年10月1日開局の鹿児島県初のコミュニティーFMの鹿児島シティエフエムの愛称「FRIENDS FM 762」と名づけました。 そして取締役にも就任しています。 2007年に第62回神宮式年遷宮の奉賛曲『鎮守の里』を作詞、作曲。 伊勢市に3日間滞在し、宇治橋のそばの五十鈴川の河原で作曲しています。 3日間で作曲してしまうなんて、なんという才能なのでしょう。デザインもできるなんてすごいですね。 2009年7月22日の日食を見に行くために屋久島へ行ったところ、大分前から準備していたにも関わらず曇りで直接見ることはできませんでした。 しかし屋久島環境保全のための修繕費用として売り上げの一部が寄付される「屋久島Tシャツ」をデザインしています。 また『ナインティナインのオールナイトニッポン』のノベルティ「ナイナイバッジ」と「ステッカー」のデザインを手掛けています。 藤井さんが番組に出演した時にコンピューターグラフィックスでのデザイン制作に興味を持っていると話をしたところ、ナイナイの二人が「作ってください」と頼んだところ、 実際に作ってきたのが採用されたとのこと。 ■妻は、中学校の時の同級生!遠距離恋愛を成就 藤井フミヤさんは1990年6月29日に「とわたり まちこ」さんという一般女性と結婚しています。 中学校の同級生でした。 奥さんの実家は地元で大きな書店を営んでいて、まちこさんは「お嬢さま」だったそうです。 当時藤井さんは不良少年だったため、奥さんのお父さんから付き合いを猛反対されたとのことです。 そこで手先の器用は藤井さんは、正月に「芋版」を作り年賀状を奥さんの実家に送りました。 そのことがきっかけでお父さんが付き合いを認めるようになったそうです。 高校卒業後は、社会人になり奥さんは東京へ行き、藤井さんは福岡で国鉄職員として働いていたため遠距離恋愛になりました。 藤井フミヤさんはこの当時の事について『毎日列車を見ながら、「この列車に飛び乗って、まちこに会いに行けたらなぁ。」と思っていました。』と話していたそうです。 チェカーズがヤマハのコンテストでグランプリを取り、デビューしたことで同じ東京へ行くことができました。 結婚の記者会見で、「藤井フミヤのどこが好きか?」と訊ねられた時に、藤井さんが「全部とか言えよ。」と促したため、 […]

YOSHIKIの年収は?CDの売上が半端ない!?実年齢は何歳なの?総資産が700億円あるって本当!?

YOSHIKIさんは1965年11月20日に、千葉県館山市の老舗呉服店を営む家庭の2兄弟の長男として生まれています。 お父さんはジャズ・ピアノ、お母さんは三味線、叔母さんは琴の演奏を嗜む音楽的な一面のある家系でした。 お父さんは先代から家業を継ぐまでは、プロのタップダンサーをしていました。 4つ歳の離れた弟の元俳優の光樹さんが現在マネージメントを行っています。 YOSHIKIさんは9歳の頃からピアノの作曲を始め、10歳から14歳までは学校のブラスバンド部でトランペットを担当していました。 また中学から高校まではサッカー部にも所属。 毎年誕生日に楽器を買い与えられるのが恒例で、トランペットは10歳の誕生日に買ってもらったことがきっかけで始めています。 その翌年の8月に、お父さんを自殺で亡くしています。 クラシック音楽しか聴いてませんでしたが、行きつけのレコード店で偶然目にしたジャケットに惹かれて購入したキッスのシングル「ラヴ・ガン」と、お母さんに頼み連れていってもらったキッスの『ロックンロール・オーバー・ツアー』の日本武道館公演をきっかけにロックに魅了され、11歳でドラムスを始めました。 11歳で初めての4人組バンド「DYNAMITE」(メンバーは小学校の同級生2人と幼馴染みでギターが弾けたToshIさん)を結成、後に「NOISE」に改称し、レッド・ツェッペリンやディープ・パープルなどの楽曲を演奏していました。 1982年の夏、大学受験のためにメンバーが離脱したNOISEを解散し、ハードなロックを志向したバンド「X」(X JAPAN)をToshIさんと結成。 高校3年から音楽大学を目指して本格的にピアノに打ち込み、受験用のプログラムを通して、ソルフェージュ、和声、楽典などの音楽理論を学びました。 高校を卒業すると本格的にバンド活動を行うためにToshIさんと共に上京。 1986年には、インディーズのレコード会社「エクスタシーレコード」を設立。 このレコード会社はLUNA SEAやGLAY、ZI:KILLなどを輩出しています。 キッスに感化されてロックの世界に! そんなYOSHIKIさんの気になる年収を徹底調査しました!! ■プロフィール 本名:林佳樹(はやし よしき) 愛称:よっちゃん 生年月日:1965年11月20日 出身地:千葉県館山市出身 血液型:B型 職業:ソングライター、作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、ドラマー、ピアニスト、実業家 ■愛知万博のイメージ・ソングを担当! 1991年には小室哲哉さんとともに2人で新ユニット「V2」を結成。 1992年にV2として、シングル「背徳の瞳〜Eyes of Venus〜」をリリース。 1993年の年末には『第43回NHK紅白歌合戦』の全出場歌手で歌う合唱曲「TEARS~大地を濡らして~」を作詞、作曲し会場のパイプオルガンで伴奏。 1994年にはクイーンのドラマーのロジャー・テイラーさんとのコラボレーション・シングル「Foreign Sand」をリリース。 2人は国連UNESCOの呼びかけにより催された『GME ’94 〜21世紀への音楽遺産をめざして〜 AONIYOSHI』で共演。 1997年X JAPANの解散を発表。 1999年『天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典』のための奉祝曲の制作の依頼を受け、皇居前広場で行われた式典で作曲した『Anniversary』を演奏。 2000年6月にメジャー・レーベル「エクスタシー・ジャパン」を設立。 Shiroや、BEAST、Revenusなど、レーベル所属のアーティストのデビューに携わりました。 2005年には『日本国際博覧会(愛知万博)』の公式イメージ・ソングを制作。 2012年ゴールデングローブ賞の公式テーマ・ソングを制作。 1993年からは他のアーティストのプロデュースも務め、NOA、GLAY、西城秀樹さん、北野井子さん、DIR EN GREY、工藤静香さん、ぽるん、松田聖子さんなどの作品を手掛けています。 2000年には「日本社会と文化に貢献した人物」として文部大臣表彰を受けました。 YOSHIKIさんはプライベートブランドを立ち上げコーセーと共同で香水をつくりました。 またワコールとは女性用下着を作っています。 タカラ社のリカちゃんシリーズとのコラボレーションではリカちゃんシリーズで初めての実在の人物としてX japanのYOSHIKI人形が発売されました。 ロサンゼルスには10億円もの投資をして作ったスタジオを所有していて、マイケル・ジャクソンさんもレコーディングに訪れて友達になったそうです。 […]

さかなクンの年収は?帽子のデザインはなんの魚?クニマスを発見したって本当?お母さんの教育が凄い!?

さかなクンは東京都で生まれて、神奈川県綾瀬市に育っています。 綾瀬市立北の台小学校、綾瀬市立北の台中学校、神奈川県立綾瀬西高等学校を卒業しました。 さかなクンは子供の頃から絵を描くのが大好きで、漫画家の水木しげるさんの作品を描いていました。 小学生の時、友達が描いたタコの絵に感動し、実物が見たいとお母さんに頼み、タコを一匹買ってもらいます。 さかなクンがタコを描きたがっていたので、その日から毎日一カ月間、お母さんは味を変えてタコの料理を出したそうです。 タコに始まり、魚が大好きになったさかなクンは、毎週のように水族館へ行き、水槽の前でじっと魚を観察していました。 さかなクンのお母さんというのは「興味のあること」をとことんやらせるという姿勢で、「気の済むまで眺めていなさい。」と見守っていたそうです。 さかなクンは中学生3年生のときには、学校で飼育していたカブトガニの人工孵化に成功しています。 カブトガニの人工孵化は非常に珍しく、そのことは新聞にも取り上げられました。 さかなクンは「水槽が狭くてかわいそうだなあ」と思い、決まった時間にカブトガニを外に出していたら、カブトガニが潮の満ち引きと勘違いしたのが原因とのことです。 1993年高校3年生の時に、テレビ東京系の番組『TVチャンピオン』の「第3回全国魚通選手権」で準優勝しました。 その後5連覇を達成し、殿堂入りし、それからはゲスト出演しています。 現在の芸名の「さかなクン」は同番組のレポーターだった中村有志氏が名づけたものです。 東京海洋大学入学を目指しましたが願いが叶わず、日本動物植物専門学院アニマルケアー科(現在は廃校)に進みました。 専門学校卒業後は、水族館や観賞魚販売店など、魚に関係するアルバイトを転々とし、寿司屋で働いていた時、店内で魚のイラストを描いたところ、それらを見た他の店舗や企業から絵の依頼が舞い込むようになりました。 アルバイトをしながら兼業イラストレーターとして活動を始めます。 テレビのドキュメンタリー番組に出演したことで、株式会社アナン・インターナショナル会長の目に留まり、水族館での絵の展示などをサポートしてもらえるようになりました。 それ以降、魚専門のサイエンスライターとしても活動しています。 『TVチャンピオン』で優勝し、「さかなクン」の芸名がつきました。 そんなさかなクンの気になる年収を徹底調査しました!! ■プロフィール 本名:宮澤正之(みやざわまさゆき) 愛称:さかなクン、さかなチャン、博士 生年月日:1975年8月6日 出身地:東京都出身 血液型:A型 職業:魚類学者、タレント、イラストレーター ■クニマスの再発見に大きな貢献! 2006年、東京海洋大学客員准教授に就任。 小学校の時に卒業文集に水産大学の先生になることが夢と書いたことが叶ったと言えます。 2010年には京都大学依頼でクニマスのイラスト執筆を担当した際、参考のために近縁種のヒメマスを全国から取り寄せたところ、このうち西湖の個体にクニマスに似た特徴をもつものを見つけ、中坊徹次教授にに送りました。 このことがきっかけとなり、田沢湖のクニマスが西湖で生存していることが判明。 絶滅種とされていたクニマスの再発見に大きく貢献しました。 上皇さまも、中坊教授とさかなクンの功績を称え、70年ぶりに見つかったクニマスのことを「奇跡の魚(うお)」と表現されました。 クニマスはかつて秋田県の田沢湖にのみ生息していた固有種です。 水力発電用のダム建設により田沢湖の水質が急速に酸性化し、1940年代に絶滅したとみられていました。 なぜ、田沢湖固有のクニマスが西湖で見つかったかというと、1935年に田沢湖から送られた受精卵を放流していたから。 以前から西湖では、「クロマス」と呼ばれ知られていたそう。 それが「クニマス」だとは誰も思わなかったという。 田沢湖観光協会は、国や県と協力して水質改善を進めるなどして、将来的にクニマスを田沢湖に戻す計画を立てています。 今では西湖に約1万匹のクニマスが生息。 富士山の地下水が流れ込み水温が低く、環境が適しているのです。 さかなクンはまた海に関する研究や啓蒙活動に貢献した「海洋立国推進功労者」として、2012年7月13日に内閣総理大臣賞を受賞。 2015年3月18日に東京海洋大学から名誉博士の称号が授与されました。 2015年12月25日に“渚の駅”たてやまの名誉駅長に就任、さかなクンギャラリーが渚の博物館内1階に開設されました。 ■興味のあることはとことんやらせるお母さんの教育方針! さかなクンの好奇心を押さえつけず、しっかりと認めてくれていたお母さん。 子供が「何かに興味を持ち、それを探求することは素晴らしいこと」という姿勢でした。 さかなクンが子供の頃、突然「ウマヅラハギを家で飼ってみたい」と思い、お母さんに頼んで鮮魚店に連れて行ってもらい、ウマヅラハギを購入しようとしました。 「表で泳いでいるウマヅラハギをください。」 しかし、しばらくすると、板前さんがウマヅラハギの姿造りを持ってきました。 飼育するとは思わなかった板前さんがウマヅラハギをさばいて持ってきたのです。 このような時も、黙ってみていたお母さん。 「失敗することの大切さを、身をもって学んでもらいたかったのかもしれません。」とさかなクンは語っています。 さかなクンのお母さんは、「失敗しても叱らない」という姿勢を一貫して取っていたようです。 […]

浜田雅功の年収は?友人の家の扉を壊し丸刈りの全寮制の高校に入れられた!?今はSuicaも持っていない!?

浜田雅功さんは大阪市浪速区で生まれました。 父親の憲五郎さんはは鹿児島県出身で、大阪万博にてソ連館のペンキ塗りを請け負っていたペンキ屋に勤めていました。 浜田さんが幼稚園へ上がる頃に家族で尼崎市へ引っ越しています。 それまでは芦屋市で家族で暮らしていました。 現在も付き合いがある放送作家の高須光聖氏とは浜幼稚園で出会いました。 父親が知人の借金の連帯保証人になったことがきっかけで、裕福な生活から極貧生活を送ることになりました。 ボロアパートの天井が抜け上に住んでいたおばさんが落ちてくることもあったとか。 浜田さんは尼崎市立潮小学校に入学し、そこで現在の相方である松本人志さんと出会いました。 特に松本さんとは同じクラスになることは一度もありませんでした。 小学校卒業後、尼崎市立大成中学校に進学すると、2年進級時に松本と同じクラスになり仲良くなりました。 3年になると松本さんら友人たちと共に放送部に入部します。 中学生の時に、友人の家に松本らと遊びに行ったところ留守だったため、扉をノコギリで切って壊し中に入るという悪事を働きました。 やんちゃだったんですね。 このことがきっかけで中学の担任の先生から三重県伊賀市にある全寮制でスパルタ教育を行う日生学園高等学校(現在は桜丘高等学校)を勧められ、中学卒業後の1979年に入学。 2年次(1980年)には日生学園高等学校の兄弟校にあたる全寮制の日生学園第二高等学校(三重県津市。現在は青山高等学校)が開校し、浜田さんは同校に移動しています。 あまりの厳しさに、一度だけ学校を抜け出し松本人志さんの家に逃げ込んだことがあるとか。 全寮制で抑圧が厳しく、俗世と隔離された生活をしていたため、寮内で丸刈り(当時の校則で定められていた)に散髪する際に床に敷かれた新聞から、石原裕次郎の入院を知りました。 高校生時代は外部との接触が遮断されていたため、月に一度の散髪の時、床に敷かれた新聞紙が”唯一の情報源”だったとのこと。 また実家に帰省し友人と街へ遊びに行った際に三色の歯磨き粉が発売されていたことをはじめて知ったそうです。 浮世離れしていたのですね。 当時は教師や上級生からの暴力が日常茶飯事であり、浜田さんも教頭に松葉杖で殴られるなどの体罰を受けた経験があります。 しかし、1年生の時には寮で相部屋となった当時の三年生からお菓子を貰うなどして可愛がってもらったそうです。 在学中は副学寮長を務めていました。 高校卒業後の目標は特になかったため、父親の提案で競艇選手の試験を受けましたが残念なことに失敗しています。 いたずらが過ぎて、厳しい全寮制の高校に入れられた! そんな浜田雅功さんの気になる年収を徹底調査しました!! ■プロフィール 本名:濱田雅功(はまだまさとし) 愛称:浜ちゃん、ダーハマ、まーくん 生年月日:1963年5月11日 出身地:兵庫県尼崎市出身 血液型:A型 職業:芸人、司会者、俳優、歌手 ■「ダウンタウン」のコンビ名でデビューして、大人気! 1982年、松本さんを誘って吉本興業に入ります。吉本総合芸能学院第1期生となります。初めは『松本・浜田』というコンビ名でしたが、複数回の改名(『ひとしまさし』『てるお・はるお』『ライト兄弟』)を経て『ダウンタウン』となりました。 『4時ですよーだ』で関西地区での人気を確立し、ほどなくして上京し、『夢で逢えたら』『ダウンタウンのごっつええ感じ』などで人気を博し、全国区タレントとして広く名を知られるようになりました。 1990年前後にはウッチャンナンチャン・とんねるず・B21スペシャルらと共に「お笑い第三世代」として一大ブームを巻き起こしました。 以後、お笑いのみの活動にとどまらず、俳優、声優、歌手としても活動し、ピンでは司会を務める事も多いです。 浜田さんは2016年12月、声帯炎にかかり、同月18日、25日放送のダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!を欠席しています。 相方の松本さんはこれを受け「欠席前の方が声が出ていてハキハキしていた」と後日ガキの使いで語ったそうです。 妻は小川菜摘(1989年結婚)。 長男はハマ・オカモト、2015年の時点でアメリカ留学、2019年9月、アメリカの大学を卒業。 次男もいます。 ダウンタウンは劇場時代を振り返り「昔は本当にひどかった」と前置きしたうえで、観客と喧嘩をしていた過去を明かしています。 浜田雅功は当時、ヤジを飛ばしてきた客に詰め寄ると「お前、入場料なんぼ払ろうたんや?」と訊ね、3000円だと答えた客に対して「これやるから帰れ!」と、入場料を叩き返したことがあるそうです。 やりますね。 ■Suicaのチャージの仕方がわからない!?「浮世離れしてるねぇ」 ダウンタウンが、2020年2月5日に放送されたテレビ番組「水曜日のダウンタウン」(TBS系)に出演。 2人ともSuicaのチャージ方法がわからないことが判明しました。 この日、プライベートで電車に乗るか尋ねられたダウンタウン・浜田さんは、「俺はもう全然やな」と答え、松本さんも「ちょっと待てよ……ホンマにないな」と2人とも全く電車に乗らないと語りました。 そして「Suicaのチャージの仕方とかわからないでしょう?」と聞かれると、浜田さんは絶句。 松本さんは「スマホの(Suicaの)チャージの仕方はわかるよ。スマホに入れてるから」とSuicaそのもののチャージの仕方はわからないと答えました。 松本さんがスマホでSuicaを使っていることに、浜田さんが「Suica持ってるんや!」と驚くと、逆に松本さんは浜田さんに対して「お前ひどいな……いやあすげえな、浮世離れしてるねえ」と呆れたとのこと。 ■浜田雅功さんの年収は? 浜田雅功さんの年収は、なんと4億4000万円! […]

北島三郎の年収は?紅白歌合戦の出場回数は?与作やまつりでファンの心わしづかみ!愛馬のキタサンブラックは菊花賞で優勝!?

北島三郎さんは1936年10月4日北海道上磯郡知内村(現:知内町)に生まれています。 北海道函館西高等学校に進学。 高校時代、海で溺れた小学生を救助し、函館新聞にも掲載されました。 高校在学中に函館で開催された『NHKのど自慢』に出場しましたが、鐘は2つでした。 司会の宮田輝氏から「良い声をして学生さんですか?お上手でしたのにねえ…」と優しい声をかけられ、「歌やれば歌手の道があるかもしれない」と思うようになったそうです。 1954年17歳で高校を中退後、18歳で東京の親族を頼って上京。 東京声専音楽学校に入学。 しかし歌謡曲をやりたかったので、渋谷を拠点に流しの仕事をしながらデビューを目指しました。 この頃に下宿していたアパートの大家の娘の雅子さんと結婚。 1960年流しの仕事をしていて声をかけてきたのが日本コロムビアの芸能部長で、新橋の喫茶店に呼び出され、引き合わせられたの作曲家の船村徹でした。 これを契機に船村門下生となりレッスンの日々となります。 流しから船村門下に入りデビューを果たす。 そんな北島三郎さんの気になる年収を徹底調査しました!! ■プロフィール 本名:大野穣(おおのみのる) 愛称:サブちゃん 生年月日:1936年10月4日 出身地:北海道上磯郡知内村出身 血液型:O型 職業:演歌歌手、俳優、作詞家、作曲家、馬主 ■「与作」が大ヒット!紅白出場「まつり」でトリに! 1961年船村氏から「なみだ船」の譜面を渡され、レコーディングも行われました。後に最初のヒット曲となります。 1962年「北海道(北島)生まれの三郎」という由来のもとに北島三郎と命名、デビューが決定。 同年6月に日本コロムビアから「ブンガチャ節」でデビューするが不発に終わりました。 セカンド・シングル「なみだ船」がヒットなりました。 1963年NHK紅白歌合戦に初出場。 1965年「兄弟仁義」「帰ろかな」「函館の女」をリリースし、3曲大ヒットとなり演歌歌手としての人気を確立。 1978年「与作」(NHK『あなたのメロディー』で公募)が大ヒットし、ファンの幅を広げました。 1980年以降『腹が丈夫』であったことをシャレにして自ら原譲二というペンネームをつけ、作詞や作曲、演出を手掛けるようになってきました。 1986年「北の漁場」で第28回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。 1989年4月21日1月8日の改元により制定された年号「平成」にちなんで「平成音頭」を発表。 約16万枚を売り上げました。 1998年テレビアニメの主題歌(NHK『おじゃまる』の主題歌「詠人(うたびと))を歌い、新しいジャンルにも挑戦。 2006年10月4日古希と『芸道45周年』を祝うパーティーの席上、一番弟子の山本譲二を2007年に「のれん分け」のかたちで独立させることを発表。 2006年に発表の「あの日時代」がオリコン演歌・歌謡チャートで1位を記録。 2010年放送文化の向上に功績のあった人物を表彰する「第61回日本放送協会放送文化賞」を受賞。 同年3月29日には「北島三郎特別公演」の名古屋御園座公演千秋楽で「座長公演4000回」の大記録を樹立。 2013年第64回NHK紅白歌合戦で史上初の50回出場を達成するが、この回限りでの勇退を宣言。 史上最多の13回のトリで『まつり』を披露。 5年後の2018年・第69回NHK紅白歌合戦において、特別枠で弟子のユニットである北島兄弟(北山たけし・大江裕)とともに出場し、7度目の『まつり』を歌い上げました。 ■愛馬のキタサンブラックが菊花賞で優勝!豪邸は36部屋!? 北島三郎さんは、演歌歌手としてだけでなく、JRAの馬主としても知られています。 1963年から馬主として活動しています。 北島さんが馬主としての活動を始めたのは、先輩歌手だった春日八郎さんに勧められたためのようです。 春日八郎さんもまた馬主として活動をしていました。 2015年には北島三郎さんの愛馬キタサンブラックが菊花賞で優勝。 これまでのキタサンブラックの獲得賞金は6億4279万円。 今までに所有していた馬の数は約170頭。 馬主は所有馬を預ける厩舎や生産牧場に預託料を支払わなければならず、これまで10億円の預託料を支払っています。 北島三郎さんの馬は30億円近い賞金を獲得しており、競馬の賞金は馬主が80%、調教師が10%、騎手と厩務員5%ずつの取り分になっているので、北島さんの取り分は24億円にのぼります。 預託料の10億円を差引くと、約14億円儲けていることになります。 すごい金額ですね。 東京都八王子の豪邸は、三郎の語呂合わせで36部屋もあるそうです。 弟子も住まわせ面倒を見ているようです。 テニスコートもあり、八王子の夜景と富士山がとてもきれいに見えるそうです。 […]

黒柳徹子の年収は?年齢は?実はオペラ歌手になりたかった!?徹子の部屋のギャラがやばすぎる!

黒柳徹子さんは1933年8月9日東京都港区乃木坂で、ヴァイオリニストの父黒柳守綱さんと母黒柳朝さんのもとに生まれました。 父親の黒柳守綱さんはNHK交響楽団のコンサートマスターをしています。 母親の黒柳朝さんは著書『チョッちゃんが行くわよ』で自身と家族を描きNHK連続テレビ小説でドラマ化されています。 男兄弟は全部で3人いますが、兄は夭折。 弟の黒柳紀明さんは父の後を継いでヴァイオリニストになり、フロイデフィルハーモニーで第二ヴァイオリニストのトップを務めています。 妹の真理さんは元バレリーナ、エッセイスト、美容家で、ボリショイ・レニングラードバレエ団でプロのバレリーナとして活躍。 黒柳徹子さんは子供の頃は注意欠陥、多動性障害、学習障害であったと言われています。 トモエ学園から香蘭女学校を経て、東京音楽大学声楽科を卒業。 オペラ歌手になることを希望していましたが、夢が叶わず、1953年に6000人集まった『NHK放送劇団』の俳優募集のオーディションを受け、採用された13人のうちの1人に残りテレビでの女優第一号になりました。 面接では家族のうちでも両親から「そんなみっともない仕事をするのか」とか「そういう世界は騙そうとする人が多い」などと言われたことを暴露しましたが、見事に合格しました。 音楽の道から女優へ。 そんな黒柳徹子さんの気になる年収を徹底調査しました!! ■プロフィール 本名:黒柳徹子 愛称:とっとちゃん、ちゃっく 生年月日:1933年8月9日 出身地:東京都港区乃木坂出身 血液型:A型 職業:女優、タレント、声優、司会者、エッセイスト、ユニセフ親善大使 ■さまざまなキャラクターを演じ、『徹子の部屋』で主婦の人気者に! 初めは独特の個性が邪魔をして仕事に恵まれませんでしたが、劇作家の飯沢匡(ただす)氏と出会ってから個性を活かして才能を開花させました。 1954年NHKラジオ第1で放送されたラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』で三男のトン坊役を演じて一躍有名に。 以降も『チロリン村とくるみの木』『ブーフーウー』などに出演し、さまざまなキャラクターの声を演じました。 1958年25歳の若さで第9回NHK紅白歌合戦の司会に選ばれました。 この最年少記録は今も破られていないそうです。 1961年には第1回日本放送作家協会・女優賞を受賞。 1971年からは1年間アメリカ、ニューヨークのメリー・ターサイ演劇学校に留学。 1976年には『徹子の部屋』の放送が開始。 同年「主婦が選んだテレビパーソナリティーNO.1」に初めて選出され、1989年まで14年連続で選出されました。 1978年からは久米宏氏とともに最高視聴率41.9%を記録する大ヒットとなったTBSの音楽番組『ザ・ベストテン』の放送が始まり、1989年までの11年間続きました。 ■『窓ぎわのトットちゃん』が大ベストセラーに!文化功労者にも選ばれる! 1981年自身の子供の頃を描いた『窓ぎわのトットちゃん』が出版され、累計で800万部を数える大ヒットを記録し、35か国で翻訳されました。 戦後最大のベストセラーで大ブームを巻き起こしました。 それにより1982年園遊会に出席した際には、昭和天皇に『窓ぎわのトットちゃん』について部数と翻訳国数を交えた説明をしたところ、「たいそうお売れになって」と言われたエピソードがあります。 『窓ぎわのトットちゃん』の日本語版の印税で社会福祉法人トット基金を設立。 プロの、ろう者の俳優の養成、演劇活動、手話教室などに力を注いでいます。 1986年にはTBSで『世界・ふしぎ発見』が放送を開始。 初回からレギュラー解答者として毎回出演しています。 2010年に「放送ウーマン賞」の日本女性放送者懇談会40周年特別賞を受賞。 同年には平成27年文化功労者に選ばれました。 2015年5月27日には『徹子の部屋』が放送開始40年になり放送回数10,000万回を達成。 また2011年4月27日を迎えた段階で同一の司会者による番組の最多放送回数記録としてギネス世界記録に認定されました。 2017年にはこれまでの活躍が評価され、名誉都民に選ばれています。 アメリカのテレビ番組、ジョニー・カーソンの『ザ・トゥナイト・トリビューン』など多くのアメリカのテレビ番組に出演。 タイム、ニューズウィーク、ニューヨーク・タイムス、ヘラルド・トリビューン、ピープルなどに日本の代表女性として紹介されています。 日本で初めてのトーク番組『徹子の部屋』は45年目をむかえます。 またユニセフ(国連児童基金)親善大使としてアフリカ、アジアなどを訪問。 ■黒柳徹子さんの年収は?『徹子の部屋』の出演料が凄すぎ! 以前『窓ぎわのトットちゃん』が大ヒットした時の黒柳徹子さんの年収は13億円を超えていたそうです。 『徹子の部屋』の一回の出演料が150-200万円と言われていて、『徹子の部屋』だけでも3億6000万円になります。 その他テレビのバラエティー番組の出演料をいれると推定年収は5億円を超すものと思われます。 他にも印税などを含めたら、もっとあるかもしれません。 さすが日本を代表する女性だけあって、年収も破格ですね。 すごいですね。 ■まとめ […]

渡辺謙の年収は?ハリウッド進出でギャラも大幅アップ!?娘の杏の離婚は!?

渡辺謙さんは新潟県北魚沼郡広神村で、両親ともに教師の家に生まれました。 新潟県立小出高等学校在学時には吹奏楽部に所属してトランペットを担当。 1978年高校を卒業し武蔵野音楽大学進学を希望するが、お父さんの亮一さんが病に倒れ学費捻出ができずに断念。 同年芥川比呂志氏が演出する演劇集団円公演の『夜叉ヶ池』を観劇して感銘を受け、翌1979年に同劇団付属の研究所に入所。 アルバイト先で知り合った猪俣公章氏の紹介で、唐十郎氏作蜷川幸雄氏演出の『下谷万年町物語』のオーディションを受け、主演の青年役に抜擢されました。 1982年『未知なる反乱』でテレビデビュー、1984年には『瀬戸内少年野球団』で映画デビュー。 その後も『タンポポ』『海と毒薬』などの映画に準主役級で出演。 独眼竜正宗で国民的な俳優に! そんな渡辺謙さんの気になる年収を徹底調査しました!! ■プロフィール 本名:渡辺謙 生年月日:1959年10月21日 出身地:新潟県北魚沼郡広神村出身 血液型:A型 職業:俳優 活動期間:1979年~ ■大河ドラマ主演 白血病を乗り越えて 海外映画にも出演! 1987年NHK大河ドラマ『独眼竜正宗』で主役を演じ39.7%という大河ドラマ史上最高の平均視聴率を獲得。 一躍全国的な人気を得て、歌手としても1992年頃まで活動。 順風満帆に見えたが1989年急性骨髄性白血病を発症し、撮影中の『天と地と』から降板。 約1年の闘病の後、治療を続けながらも俳優業に復帰。 しかし発症から5年が経過した1994年に再発。 再治療を行い経過は良好となり無事復帰を果たしました。 海外映画初出演となったアメリカ映画『ラストサムライ』(2003年公開)で、第76回アカデミー賞助演男優賞、第61回ゴールデングローブ賞助演男優賞、第30回サターン翔助演男優賞にノミネートされるなど高い評価を得ました。 ロサンゼルスに居を構え『バットマンビギンズ』や『SAYURI』など海外映画に出演。 2005年には米国のTIME誌の表紙にグラビアが掲載されたり、ピープル誌の「最もセクシーな外国人男性」に選ばれたりするなどアメリカでの知名度が高い日本人俳優の一人となりました。いました 2006年荻原浩氏の原作の映画『明日の記憶』で映画初主演を果たしました。 若年性のアルツハイマー病に冒されていく主人公を演じていますが、闘病経験のあり原作に共感した渡辺謙さん自ら荻原さんに手紙でアピールして主役を獲得しました。 2006年クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』で海外映画初主演し、ゴールデングローブ賞の外国語映画賞を受賞。 2009年10月山崎豊子原作の映画『沈まぬ太陽』に恩地元役で主演し、第33回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞、第34回報知映画賞主演男優賞を受賞。 2014年には『GODZILLAゴジラ』にメインキャストの一人として出演。 ■離婚の真相は?娘の杏さんはNHK連続テレビ小説で主役に! 渡辺謙さんは1983年に由美子さんという一般人の方と結婚しています。 その由美子さんとは2年の離婚調停の末2005年に離婚。 離婚の理由は由美子さんの宗教問題と借金だと言われています。 1989年に渡辺さんが白血病になり2人の子供を抱えて厳しかった時、由美子さんは釈尊会という宗教団体に傾倒していきます。 そこで言われた通りにしていたら、治ってしまったとのこと。 しかし、借金をしてその釈尊会に多額のお布施をしていたため、自宅が税金滞納で差し押さえにあってしまいました。 借金を問題にした離婚調停は渡辺謙さんの勝利。 裁判費用は由美子さんが持ち、財産分与もなし借金も由美子さんが返済義務を負うことに。 由美子さんは、渡辺謙さんは不倫をしていて借金を問題にするのはそのことを隠すためだと主張していました。 離婚と同じ年の2005年にはテレビ東京のサスペンスドラマの共演を機に知り合った女優の南果歩さんと交際し12月3日に再婚しています。 しかし2017年3月には『週刊文春』によって渡辺謙さんの不倫がスクープされました。 現場はアメリカ・ニューヨークで相手は21歳年下の30代のジュエリーデザイナーとのこと。 不倫中、妻の南果歩さんは乳がんの闘病中で渡辺さんに対する批判も強かったようです。 そして2018年5月17日南果歩さんとは離婚しました。 最初の妻由美子さんとの間に儲けた息子の渡辺大さんは俳優として活動しています。 第2子の娘の杏さんは女優とファッションモデルとして活動しています。 杏さんは2014年春のNHK連続テレビ小説『ごちそうさん』にオーディションなしで主役に抜擢されています。 その時に夫婦役を演じた俳優の東出昌大さんと結婚。 ところが最近夫の東出さんの不倫が発覚しました。 杏さんが妊娠中から清純派女優の唐田えりかさんと不倫をしていたというのです。 しかし現在別居はしているものの、杏さんは離婚しないことを決めたようです。 父親の渡辺謙さんの不倫で両親が離婚して苦労してきたこともあったためで、壊すのは簡単だがそう簡単に離れる相手ではないと感じているようです。 (出典 ウィキペディア) […]